縄文時代の人々は、なぜ川沿いの平地ではなく、台地や丘陵の上に集落をつくったのか。水を確保しやすい場所といえば川の近くを想像しがちですが、発掘調査で見つかる縄文時代の集落跡には、谷に面した台地や段丘の上に位置するものが数多くあります。
その理由を考えるうえで重要なのが、千葉県を中心とする房総半島の集落立地研究です。菊地真が2001年に『第四紀研究』で発表した論文「房総半島における縄文時代集落の立地」は、集落と湧水の関係を具体的に検討し、縄文人が地形と水環境を組み合わせて生活の場を選んでいたことを示しています。一方、自治体の文化財解説やADEACの歴史資料には、平地住居やキャンプサイト的な集落も記録されています。「縄文時代の集落は平地には建設されなかった」という説は、どこまで正しいのでしょうか。
【この記事の重要ポイントまとめ】
- 要点1:縄文時代の集落は台地・段丘・丘陵に立地する例が多いものの、平地に住居が存在しなかったわけではない。
- 要点2:房総半島の研究では、集落が支谷の谷頭に面した台地・段丘上に位置し、半径200m以内で湧水を得られる地形的条件が確認されている。
- 要点3:浸水リスク、飲料水、木の実の加工、漁労や採集へのアクセスなどを総合的に考えると、縄文集落の立地は自然環境への適応として理解できる。
【結論】縄文時代の集落は平地に建設されなかったのか?
最初に答えを示すと、「縄文時代の集落は平地には建設されなかった」という説明は、一般的な傾向を捉えているものの、厳密には正しくありません。
考古学で確認される縄文時代の集落には、台地や丘陵上に営まれたものが多くあります。とりわけ関東地方では、谷に面した台地や段丘上に住居跡や貝塚が分布する事例が目立ちます。しかし、ここで注意したいのが「平地」という言葉の意味です。
台地の頂上部にも、住居を建てたり広場を設けたりできる平坦な土地があります。つまり、地面が平らであることと、低くて水がたまりやすい土地であることは別問題なのです。
縄文集落が多く見つかる台地上の平坦面は、周囲の低地より高い位置にありながら、建物を配置しやすいという特徴を持ちます。谷や川に近い場所を選べば、水や動植物の資源にもアクセスできます。こうした地形の組み合わせが、集落の立地を考える際の重要な手掛かりになります。
また、縄文時代は約1万年以上にわたる長い時代です。地域や時期によって気候、海岸線、生活様式、集落の規模は変化しました。ある時期や地域で確認された傾向を、縄文時代全体に一律に当てはめることはできません。
【房総半島の研究】台地・段丘と湧水はどのように結び付いていたのか
縄文時代の集落立地を具体的に理解するために注目したいのが、菊地真による房総半島の研究です。2001年刊行の『第四紀研究』第40巻第3号に掲載された同論文は、下総湾岸地域と九十九里沿岸地域を対象に、集落と自然環境の関係を「水的適応」という観点から分析しています。
研究で示された基本的な立地は、支谷の谷頭に面する台地・段丘上です。支谷とは、大きな谷や河川の谷につながる小さな谷のこと。谷頭は、その谷が始まる上流側の部分を指します。
このような場所は、周囲に低地や谷が広がり、台地の上には比較的乾燥した居住空間を確保できるという地形的特徴があります。加えて、斜面と台地の境界付近などには湧水が生じる場合があり、居住地と水源を近い距離に置けます。
同論文の重要な指摘は、対象地域の集落が湧水地帯と重なり、集落から半径200m以内で湧水を得られる地形的条件にあったことです。これは、集落の場所が単に高台だったというだけでなく、水を得るための条件とも結び付いていたことを示しています。
湧水の用途として注目されるのが、ドングリやトチの実などの堅果類の加工です。これらの中には、渋みや苦味を取り除くために水さらしが有効なものがあります。継続的に木の実を利用する生活では、水を確保しやすい場所が食料加工の面でも有利になります。
同論文は、集落から出土した遺物の組成も踏まえ、植物加工の重要性と湧水の利用との関係を論じています。水は飲み水としてだけでなく、食料を処理するための資源でもあったのです。
ただし、半径200mという数値は、この研究で対象となった地域の分析結果です。日本列島のすべての縄文集落が、必ず200m以内に湧水を持っていたと証明する数字ではありません。研究対象の範囲を踏まえて読むことが大切です。
【立地の理由を比較】浸水リスク・縄文海進・自然資源の関係
縄文時代の集落が台地や丘陵に多い背景には、一つの理由だけでは説明できない複数の条件があります。地形の高さ、水の確保、食料の獲得、地盤の状態などを組み合わせて考える必要があります。
ここで重要なのは、集落が台地上にあるからといって、縄文人が現代の防災工学のような知識に基づいて土地を選んだと断定することはできない点です。考古学的に確認できる立地と、その立地が生活にもたらした利点を区別して理解しましょう。
| 立地・環境の要素 | 生活上の利点 | 読み解く際の注意点 |
|---|---|---|
| 台地・段丘上 | 低地より高い場所に居住空間を確保しやすく、平坦面は住居の配置にも適している。 | 高い場所ならどこでも適地というわけではなく、水源や地形との関係が重要。 |
| 谷頭や谷沿い | 周囲の地形によっては湧水に近く、谷や低地の資源にもアクセスできる。 | 谷のすべてが同じ水環境を持つわけではない。 |
| 湧水地帯 | 飲料水の確保に加え、堅果類の水さらしなど食料加工にも利用できる。 | 水量や季節変動、地域ごとの地質条件を考慮する必要がある。 |
| 低湿地・河川沿いの低地 | 水辺の動植物や魚介類を利用しやすい場合がある。 | 増水や冠水、湿った地面への対応が必要となる場合がある。 |
| 海岸や内湾に近い高台 | 貝類・魚類などの水産資源と、陸上の森林資源の両方に接近できる。 | 当時の海岸線は現在と異なり、時期によって資源環境も変わる。 |
第一に考えられるのは、低地の浸水リスクです。大雨による河川の増水や、湿地での水たまりは、居住空間や火を使う場所の管理に影響します。床面を地面より低くする竪穴住居では、立地する地盤の排水性が暮らしやすさに関係したと考えられます。
ただし、縄文時代の住居がすべて同じ浸水対策を施していたわけではありません。現存する遺構から個々の住居の排水方法や設計意図を復元できる場合もありますが、台地に住居が多いという事実だけから、すべてが浸水防止を目的としていたと決め付けることはできません。
第二の要素は、縄文海進です。国土交通省関東地方整備局の霞ヶ浦河川事務所は、約6000年前の海面上昇によって谷に沿って海水が入り込み、現在の霞ヶ浦につながる大規模な入り江が形成された経緯を紹介しています。
縄文海進によって、現在の陸地の一部が当時は海や入り江、湿地に近い環境だった地域があります。そのため、現代の地図を見て「川の近くの平野なら住みやすそうだ」と判断しても、縄文時代当時の地形を正しく想像できるとは限りません。
一方、縄文海進だけで台地立地のすべてを説明するのも適切ではありません。海面の変化の影響が大きかった沿岸部と、内陸部の集落では条件が異なります。縄文海進は重要な背景ですが、湧水、地盤、植生、食料資源へのアクセスなどと併せて考える必要があります。
第三の要素は、森林資源と水産資源を組み合わせて利用できる環境です。台地上に住居を置きながら、谷や川、海岸へ移動して食料を得ることができれば、一つの場所に居住空間を確保しつつ、多様な資源を利用できます。
つまり、縄文集落の立地は単なる「高い場所への避難」ではなく、居住のしやすさと水・食料の獲得を両立させる選択として理解する必要があります。
【環状集落の仕組み】広場を中心に住居と貝塚が配置された理由
縄文集落の立地を考えるうえでは、集落の内部がどのように構成されていたかも重要です。住居が見つかった場所を地図上に点として並べるだけでは、当時の人々がどのように空間を利用していたかは見えてきません。
ADEACに掲載されている、みやこ町歴史民俗博物館の「集落と住居」の解説によると、縄文時代の集落には、広場の周囲に竪穴住居を円形に配置する大規模な環状集落、住居が群集する集落、移動式の平地住居や屋外炉を伴うキャンプサイト的な集落、単独の住居だけが確認される集落など、さまざまな形態がありました。
環状集落では、丘陵の頂上部などにある平坦面を広場として利用し、その周囲に竪穴住居を配置する例が知られています。加えて、その外側に生活廃棄物を捨てた貝塚が形成される場合もあります。住居、広場、貝塚という異なる空間が、一定のまとまりを持って配置されていたのです。
千葉県の加曽利貝塚は、縄文時代の集落と貝塚を考える代表的な遺跡の一つです。また、千葉市の荒屋敷貝塚は、標高約31mの台地上に位置し、周囲の小川や台地の地形とともに、縄文時代の生活環境を考える手掛かりとなっています。
千葉市の文化財解説によると、荒屋敷貝塚ではハマグリやアサリなどの貝類に加え、イワシをはじめとする魚類の骨も見つかっています。こうした出土資料は、台地上の集落が森林資源だけに依存していたのではなく、周辺の水辺で得られる食料も利用していたことを示しています。
環状集落の中央にある広場の意味については、共同活動や儀礼、墓域などとの関係が考古学的に検討されてきました。ただし、すべての環状集落が同じ目的で設計されたと決め付けることはできません。住居配置や墓、土坑、遺物の分布を遺跡ごとに検討する必要があります。
また、集落跡に数多くの住居跡が見つかったからといって、それらがすべて同時に使われていたとも限りません。長期間にわたって住居の建て替えや配置の変更が繰り返された可能性があります。集落の規模を考える際には、遺跡全体の広さと、特定の時期に暮らしていた人々の数を区別が必要です。
【例外も存在】平地住居やキャンプサイトはどこに位置付けられるのか
縄文集落の立地を正確に理解するには、台地上の定住集落だけでなく、平地住居やキャンプサイト的な集落にも目を向けなければなりません。
前述のADEACの解説では、縄文時代の集落形態として、移動式の平地住居や屋外炉からなるキャンプサイト的な集落も挙げられています。これは、縄文時代の生活空間が、台地上に住居を集めた大規模な集落だけで構成されていたわけではないことを示す事例です。
キャンプサイト的な場所は、長期間にわたって住居が集まる定住集落とは、土地の利用方法が異なります。特定の資源を得るために一時的に滞在した場所や、限られた数の住居・炉を中心とする活動拠点なども、遺跡の形態を考える際の選択肢になります。
また、平地に床を設ける建物と、地面を掘り下げて床をつくる竪穴住居では、構造上の違いがあります。竪穴住居は地面を掘りくぼめて床を設ける形式ですが、平地住居は地表面を床として利用する形式です。いずれも時期や地域、遺構の性格を考慮して判断する必要があります。
ここで注意したいのは、平地住居が見つかることと、縄文時代の主要な集落が低湿地に集中していたことは同義ではないという点です。個別の例外が存在しても、集落全体の立地傾向が直ちに否定されるわけではありません。反対に、台地上の遺跡が多いからといって、平地での生活を一律に否定することもできません。
加えて、遺跡の発見されやすさにも注意が必要です。竪穴住居は床面や柱穴などが地中に残り、発掘調査で検出される場合があります。一方、地表面を床とする建物の痕跡は、後世の土地利用や削平などによって失われたり、見つけにくくなったりする可能性があります。
低地では河川による堆積や土地の改変が起きるため、古い地表面が埋没していることも考えられます。したがって、現在確認されている遺跡の分布を、そのまま当時の人々の居住地の完全な分布とみなすことには限界があります。
縄文時代の集落立地を調べる際には、台地上の遺跡数だけでなく、発掘調査の範囲、遺構の残りやすさ、地形の変化、調査方法なども考慮する必要があります。
【弥生時代との違い】稲作の開始で集落の立地はどう変化したのか
縄文時代の集落立地を理解するうえでは、弥生時代との比較も有効です。ただし、縄文時代は狩猟・採集・漁労、弥生時代は稲作という単純な二分法だけで、すべての集落の違いを説明できるわけではありません。
吉野ヶ里遺跡の公式解説を掲載する弥生ミュージアムによると、縄文時代の集落は台地や丘陵上に営まれるのが一般的でした。弥生時代にも台地や丘陵上の集落は多く見られますが、稲作の開始に伴い、低地や平野の微高地にも集落が形成されるようになります。
水田稲作では、水を確保しやすい場所と、耕作に適した土地を利用することが重要になります。そのため、低地や水田を望む微高地などが、集落の立地として選ばれるようになりました。一方で、住居を洪水などから守る必要がある場所では、低地そのものではなく、少し高い土地に居住空間を設けることも合理的です。
この変化は、弥生時代にすべての人々が平地へ移住したことを意味しません。弥生時代にも台地上の集落は存在し、地形や農耕の条件に応じてさまざまな立地が選択されました。
また、縄文時代の人々も水辺を利用していました。房総半島の集落から貝類や魚類の骨が見つかること、湧水が食料加工に利用されたと考えられることは、縄文社会が水環境と密接に関わっていたことを示しています。縄文時代と弥生時代の違いは、水を利用したかどうかではなく、生活や生産の仕組みの変化に伴って、水辺と居住地の結び付き方が変化した点にあります。
つまり、縄文時代の台地立地と弥生時代の低地利用は、単純な優劣の関係ではありません。それぞれの時代の生活様式や地域環境に応じて、適した土地の選び方が変わっていったのです。
【縄文時代の集落は平地には建設されなかった】に関するよくある質問(FAQ)
Q1:縄文時代の集落が台地や丘陵に多い最大の理由は何ですか?
A1:一つの理由だけで説明することはできません。台地や段丘は居住空間を確保しやすく、場所によっては湧水や森林資源、水産資源にも近接できます。浸水リスクや地盤の状態も関係したと考えられますが、地域や時期によって条件は異なります。
Q2:房総半島の縄文集落では、本当に200m以内に湧水があったのですか?
A2:菊地真の2001年の研究では、対象とした下総湾岸地域・九十九里沿岸地域の集落について、半径200m以内で湧水を得られる地形的条件が示されています。ただし、この数値を日本列島のすべての縄文集落に当てはめることはできません。
Q3:縄文海進によって、平地には住めなくなったのですか?
A3:そのように一律に説明することはできません。縄文海進によって海水が内陸に入り込んだ地域はありますが、影響は地形や場所によって異なります。海面変化に加えて、湧水、食料資源、地盤など複数の条件が集落の立地に関係していました。
Q4:縄文時代にも平地住居やキャンプサイトはあったのですか?
A4:はい。ADEACに掲載されている歴史資料には、移動式の平地住居や屋外炉からなるキャンプサイト的な集落が紹介されています。台地上の大規模な定住集落が多く確認されることと、平地での居住や一時的な土地利用が存在することは両立します。
Q5:弥生時代になると、集落はすべて平地に移ったのですか?
A5:いいえ。弥生時代にも台地や丘陵上の集落は存在しました。稲作の開始によって低地や平野の微高地が利用されるようになりましたが、立地は水田の条件や地域の地形などによって異なります。
まとめ:縄文集落の立地を正しく理解するための判断基準
「縄文時代の集落は平地には建設されなかった」という説は、台地や段丘上に立地する集落が多いという傾向を表しています。しかし、平地住居やキャンプサイト的な集落も存在するため、例外を含めて理解することが欠かせません。
房総半島を対象とした菊地真の研究が示すように、縄文集落の立地は、地形の高さだけでなく、湧水へのアクセスや木の実の加工といった日常の生業とも関係していました。加えて、縄文海進による海岸線の変化や、周辺の森林・水産資源も、生活の場を考えるうえで重要な要素です。
縄文集落の立地を調べるときは、次の三つの視点を押さえると、情報をより正確に読み解けます。
- 地形:台地・段丘・丘陵と低地を区別し、当時の地形や海岸線を考慮する。
- 水と生業:湧水、河川、海岸との距離だけでなく、飲料水や食料加工、漁労などとの関係を見る。
- 集落の実態:大規模な環状集落だけでなく、単独住居や平地住居、キャンプサイト的な遺跡も含めて比較する。
縄文人が選んだのは、単に高い場所でも、単に水に近い場所でもありません。住みやすい地形を確保しながら、必要な水や食料を得られる環境でした。集落の位置を地形や出土資料と照らし合わせて見ることで、「平地には住まなかった」という単純なイメージを超え、縄文時代の暮らしと自然環境の関係がより具体的に見えてきます。