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榎本明と榎本武揚の違いは?生涯・海軍経歴・天津条約への貢献を徹底解説

藤咲 尚 藤咲 尚 • 更新: • 公開: • 読了約 17 分
目次

「榎本明」で検索した際、幕末の海軍軍人や明治時代の外交官として知られる榎本武揚の情報にたどり着き、名前の違いに疑問を持つ人もいるでしょう。国立国会図書館の人物情報に記載されている歴史上の人物は、榎本武揚(えのもと・たけあき)です。別称として釜次郎(かまじろう)も知られていますが、「榎本明」は同館の人物典拠に記載された別称ではありません。

榎本武揚は、幕府海軍の中核を担い、箱館戦争で新政府軍に抵抗した後、明治政府で海軍中将、清国駐在公使、逓信大臣、文部大臣、外務大臣などを歴任した人物です。とりわけ、清国公使時代の李鴻章との交渉や、1885年の天津条約締結に向けた働きは、幕末の軍人が近代日本の外交を担うまでの転身を理解するうえで重要な出来事です。

【この記事の重要ポイントまとめ】
  • 名前の違い:歴史上の人物として確認できるのは榎本武揚。「榎本明」は同人物の別称として国立国会図書館の人物情報に記載されていない。
  • 軍人・外交官としての経歴:オランダ留学、開陽丸の指揮、箱館戦争を経て、ロシア公使や清国公使、各省大臣を歴任した。
  • 天津条約への貢献:李鴻章との交渉を通じて日清間の調整に携わった。ただし、1885年の条約に署名した全権は伊藤博文と李鴻章である。

【最初に確認】榎本明と榎本武揚は同じ人物なのか

榎本明

まず整理しておきたいのは、検索語としての「榎本明」と、幕末・明治期の人物である「榎本武揚」は、名前の表記が異なるという点です。両者を同一人物の別表記として扱う根拠は、国立国会図書館の公開する人物情報からは確認できません。

国立国会図書館の「近代日本人の肖像」では、榎本武揚の生没年を1836年10月5日から1908年10月26日までとし、読みを「えのもと・たけあき」、別称を「釜次郎」としています。一方、同館の人物典拠情報では「榎本武揚」のほか、旧称の「榎本釜次郎」や号の「梁川」が記載されています。したがって、歴史資料を調べる際は「榎本武揚」「榎本釜次郎」「梁川」といった表記を手掛かりにすると、関連する資料を探しやすくなります。

ここで注意したいのは、人物名の一字違いを単純な誤記と決めつけないことです。歴史上の人物には、幼名、通称、号、改名後の名前などがあり、資料ごとに表記が変わる場合があります。しかし、榎本武揚について公的な人物情報に記載されている別称と、「榎本明」という表記は区別して扱う必要があります。

以下では、清国公使や天津条約に関する検索意図に沿って、榎本武揚の生涯と外交上の役割を整理します。国立国会図書館の人物情報と、国立公文書館に残る条約関係資料を照らし合わせると、軍人としての経歴と外交官としての実績を混同せずに理解できます。

【検証資料 1】当時のメディア報道・掲載写真(出典:upload.wikimedia.org)

【生涯と経歴】榎本武揚の人生を年表で整理

榎本武揚は、江戸幕府に仕える幕臣として生まれ、西洋の海軍技術を学んだ後、幕府海軍の幹部となりました。明治維新では旧幕府側に立って新政府軍と戦いましたが、降伏後は北海道開拓や外交に携わり、明治政府の要職を務めるようになります。

国立国会図書館の略歴や北海道立図書館の所蔵資料展で紹介されている年譜をもとに、主な転機をまとめると次のとおりです。

年月 主な出来事 歴史的な意味
1836年10月 江戸に生まれる 幕臣の家に生まれ、のちに幕府海軍を担う
1856年 長崎海軍伝習所に入る 西洋式の航海術や海軍技術を学ぶ
1862~1867年 オランダに留学 海軍技術に加え、自然科学や法学などを学ぶ
1867年 開陽丸とともに帰国 幕府海軍の指揮を担う立場になる
1868~1869年 箱館へ渡り、五稜郭で新政府軍と戦う 旧幕府勢力による抵抗の中心人物となる
1872年 出獄し、開拓使に出仕 北海道開拓を通じて新政府の官僚として再出発する
1874~1875年 海軍中将・駐露公使となり、樺太・千島交換条約の交渉に携わる 軍人から外交官への転身を進める
1882~1885年 清国駐在公使として日清交渉に従事 李鴻章との交渉や天津条約締結への貢献で知られる
1891年 外務大臣に就任 日本外交を担う政府高官となる
1908年10月 死去 幕末から明治期にかけて活動した生涯を終える

この年表で注目すべきなのは、1869年の降伏が政治活動の終わりにならなかったことです。榎本は箱館戦争の敗北後に拘束されましたが、1872年に出獄し、北海道開拓に従事しました。その後、駐露公使や海軍卿などを務め、1882年には清国駐在公使に任命されています。

国立国会図書館の略歴によれば、榎本は海軍中将や海軍卿を経験しただけでなく、逓信大臣、文部大臣、外務大臣、農商務大臣なども歴任しました。軍事、外交、行政をまたいで活動した点が、榎本武揚の経歴を特徴づけています。

【開陽丸の艦長】海軍軍人としての実績と五稜郭での抵抗

榎本武揚の軍人としての経歴を理解するうえで欠かせないのが、オランダ留学と開陽丸です。幕府は西洋式海軍の整備を進めるため、榎本を含む留学生をオランダへ派遣しました。榎本は1862年に渡欧し、軍艦の建造に関する監督も担い、1867年に開陽丸とともに帰国しました。

開陽丸は幕府がオランダに発注した軍艦で、榎本は帰国後、軍艦乗組頭取、すなわち船将に相当する立場を務めました。幕末の海軍力を支える重要な艦船であり、榎本にとっては留学で学んだ技術と知識を実務に生かす場でもありました。外務省外交史料館の解説でも、榎本が開陽丸の建造監督を兼ねてオランダに留学した経緯が紹介されています。

1868年、江戸城が開城すると、榎本は旧幕府海軍の艦船を新政府に引き渡すことに反対し、艦隊を率いて北へ向かいました。北海道に渡った一行は箱館を占領し、五稜郭を拠点として新政府軍に抵抗します。榎本は蝦夷地に成立した政権の総裁となりましたが、1869年5月に降伏しました。

この行動だけを見ると、榎本は明治新政府に反抗した軍人です。しかし、その後に海軍中将や海軍卿を務めた事実まで含めて考えると、彼の経歴は旧幕府側から新政府側への単純な寝返りでは説明できません。西洋の知識や海軍技術を備えた人材が必要とされた明治初期に、榎本の能力が行政や外交の現場でも活用されたことが、再起の背景にありました。

【検証資料 2】活動歴および当時の関連ビジュアル記録(出典:産経ニュース)

【清国公使と李鴻章】甲申事変から天津条約までの交渉

榎本武揚の外交官としての役割を語る際、とくに重要なのが清国駐在公使時代です。1882年8月、榎本は清国駐在の特命全権公使に任命され、妻子を伴って赴任しました。国立公文書館の関連記録にも、海軍中将だった榎本を清国在勤の特命全権公使に任命する手続きが残っています。

赴任後の榎本は、清国の有力者である李鴻章との関係を築きました。1883年末には大沽で李鴻章と会談し、親交を深めたとされています。こうした関係は、その後に朝鮮半島をめぐって日清間の緊張が高まった際、交渉を進めるための基盤になりました。

転機となったのは、1884年に朝鮮で発生した甲申事変です。日本と結び国内改革を進めようとした勢力が、清との関係を重視する勢力に敗れたことで、朝鮮半島における日本と清の対立は深まりました。国立公文書館の解説でも、甲申事変を契機に日清間の緊張が高まり、翌1885年に天津条約が締結された経緯が説明されています。

榎本は日本側の全権として派遣された伊藤博文を支え、李鴻章とたびたび会談して、事態の収拾に向けた交渉に携わりました。ここで押さえておきたいのは、榎本が天津条約の唯一の交渉責任者だったわけではないという点です。条約締結に向けた日本側の全権は伊藤博文、清国側の全権は李鴻章であり、榎本は清国駐在公使として交渉を支援した人物です。

天津条約は1885年4月18日、天津で調印されました。国立公文書館が公開する条約関係資料には、伊藤博文と李鴻章の署名が記録されています。主な取り決めは、朝鮮から日本と清の軍隊を撤退させること、両国が朝鮮に軍事教官を派遣しないこと、将来、朝鮮に重大な事態が起きて出兵する場合には相互に事前通告することでした。

つまり、天津条約は朝鮮半島をめぐる日清両国の緊張を調整するための取り決めでした。榎本の貢献を正確に理解するには、彼が条約そのものに署名した人物だと誤解するのではなく、清国に駐在していた外交官として、伊藤と李の交渉を支えたことに注目する必要があります。

また、条約の意義を過大評価することも避けたいところです。国立公文書館の解説によれば、1894年に甲午農民戦争が起きた際、清は天津条約の規定に基づいて日本へ出兵を通知し、日本も朝鮮へ軍隊を派遣しました。天津条約は軍隊派遣の手続きを定めたものの、朝鮮半島をめぐる両国の対立そのものを解消するには至らなかったのです。

【福沢諭吉の助命活動と妻・たつ】榎本武揚の家族と人間関係

榎本武揚の人物像を考えるうえでは、五稜郭での敗北後に出獄できた経緯も見逃せません。箱館戦争で降伏した榎本は拘束されましたが、黒田清隆らの働きかけもあり、1872年に出獄して新政府に出仕しました。函館市の地域史料アーカイブでも、榎本の赦免には黒田清隆と福沢諭吉の働きかけがあったことが紹介されています。

福沢諭吉の関与は、単なる旧幕臣同士のつながりだけでは説明できません。榎本の妹婿で、福沢の元上司でもあった江連堯則から榎本の状況を把握するよう依頼された福沢は、糾問所に働きかけました。加えて、静岡にいた榎本の母と姉を江戸に呼び寄せ、母のために面会請願文を代筆したと伝えられています。

興味深いのは、福沢が榎本の助命に尽力した一方で、後年にはその政治的な生き方を厳しく批判したことです。国立国会図書館の電子展示会「あの人の直筆」では、福沢が1892年に榎本へ書簡を送り、草稿『瘠我慢の説』について答弁を求めた経緯が紹介されています。同書では、箱館での抵抗を評価しながらも、出獄後に新政府へ仕えたことを批判する姿勢が示されました。

この関係は、榎本の評価が一面的ではないことを物語っています。福沢は榎本の命を救うために動きながら、その後の政治的選択については異議を唱えました。助命への協力と政治的な批判が両立していた点は、明治維新を生きた人々の複雑な人間関係を示す一例です。

家族については、榎本は1867年に、林洞海の長女で林研海の妹にあたる、たつ(多津)と結婚しました。林洞海は蘭方医であり、妻の家系には佐藤泰然につながる医家の人脈がありました。榎本自身がオランダ留学を通じて西洋の学問や技術に接していたことを考えると、当時の知識人や医家との人脈も、彼の活動を理解するうえで興味深い背景です。

榎本は外交官として赴任した際、妻子を伴って北京へ向かいました。公的な経歴からは、軍務や外交だけでなく、家族を伴う赴任生活を送っていたことも読み取れます。ただし、妻の出自や親族関係と、榎本自身の官職・外交上の実績は、別々の情報として整理することが大切です。

【検証資料 3】公の場での発言・インタビュー報道記録(出典:sponichi.co.jp)

【人物像と評価】反逆者から政府高官へ転じた理由

榎本武揚の人物像を考える際、最も目立つのは、旧幕府軍の指導者でありながら、明治政府の中枢でも活動したという経歴です。箱館戦争では新政府軍に抵抗し、敗北後には拘束されました。しかし、出獄後は北海道開拓に携わり、ロシアとの条約交渉、海軍行政、清国との外交、各省の大臣職へと活動領域を広げました。

その背景には、語学力や西洋の自然科学・法学に関する知識、海軍技術への理解がありました。国立国会図書館の紹介する榎本の日記には、オランダ留学中の記録や、1878年にシベリアを横断した際の観察が残っています。これらは、榎本が軍務だけでなく、海外の社会や自然環境にも関心を向けていたことを示す資料です。

一方、榎本の評価を単純な成功物語にすることも適切ではありません。旧幕府側に立って戦ったこと、敗北後に新政府へ仕えたこと、そして福沢諭吉からその転身を批判されたことは、いずれも彼の経歴を構成する重要な事実です。どの立場を重視するかによって、榎本の評価は変わり得ます。

外交面では、天津条約への貢献を評価する際にも同様の注意が必要です。榎本は清国公使として李鴻章との交渉に関わりましたが、条約の署名者は伊藤博文と李鴻章でした。交渉の支援者と全権署名者を区別することによって、榎本の役割を過不足なく理解できます。

【プロの結論】 榎本武揚を理解するための判断基準は、軍人時代の行動だけで人物を決めつけず、敗北後の行政・外交活動まで含めて経歴を追うことです。加えて、条約や官職については、本人が担った役割と、最終的な決定や署名を行った人物を区別する必要があります。榎本の生涯は、幕末から明治への制度転換と、旧幕臣の能力が新政府でどのように活用されたかを考える手掛かりになります。

【榎本明】に関するよくある質問(FAQ)

Q1:榎本明と榎本武揚は同じ人物ですか?

A1:歴史上の人物として紹介される榎本武揚と、「榎本明」という表記は区別する必要があります。国立国会図書館の人物情報では、榎本武揚の読みは「えのもと・たけあき」、別称は釜次郎とされています。「榎本明」は同人物の別称として記載されていません。

Q2:榎本武揚は開陽丸の艦長だったのですか?

A2:榎本武揚は、開陽丸とともにオランダから帰国した後、軍艦乗組頭取、船将に相当する立場を務めました。幕府海軍の幹部として活動し、明治維新では艦隊を率いて箱館へ渡りました。

Q3:榎本武揚は天津条約を締結した本人ですか?

A3:榎本は清国駐在公使として、李鴻章との交渉や伊藤博文の交渉支援に携わりました。ただし、1885年4月18日の天津条約に署名した全権は、日本側の伊藤博文と清国側の李鴻章です。榎本の役割は、清国公使として日清間の調整に貢献したことにあります。

まとめ:榎本武揚の経歴を正しく理解するための判断基準

「榎本明」という検索語から幕末・明治期の人物情報を探す場合、まず確認したいのは、人物名の正確な表記です。国立国会図書館の人物情報に記載されているのは榎本武揚であり、釜次郎という別称もあります。「榎本明」を同人物の別表記と決めつけず、人物情報に記載された名称を手掛かりにすることが、混同を防ぐ第一歩です。

榎本武揚は、開陽丸の指揮を担った幕府海軍の軍人であり、箱館戦争で敗北した後、北海道開拓、ロシアとの外交、清国公使としての日清交渉、そして明治政府の各省大臣へと活動の場を広げました。とりわけ天津条約では、李鴻章との交渉に関わったことと、条約に署名した伊藤博文の役割を区別が必要です。

人物の生涯を調べる際は、名前、生没年、官職、交渉への関与、条約の署名者をそれぞれ確認すると、断片的な情報による誤解を避けられます。榎本武揚の生涯は、幕末の軍事的対立と明治国家の形成、そして東アジア外交の変化を一つの人物の経歴から読み解くことのできる事例です。

参考にした主な資料

- 国立国会図書館「近代日本人の肖像」「榎本武揚関係文書」
- 国立公文書館「日清戦争」学習コンテンツ・天津条約関係資料
- 外務省外交史料館「日本とブラジルの120年」
- 国立国会図書館電子展示会「あの人の直筆」
- 北海道立図書館の榎本武揚略年譜

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藤咲 尚

旅行・住まい・暮らしの話題を担当。自治体の公式観光情報、施設の公開資料、不動産の公的統計を参照し、料金や所在地は発表時点の情報として明記します。

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