近藤利一(こんどう・りいち)は、競馬界で「アドマイヤ」の冠名を持つ数々の名馬を所有した実業家・馬主である。1942年9月1日に徳島県で生まれ、1984年にJRAの馬主資格を取得。アドマイヤコジーン、アドマイヤベガ、アドマイヤドン、アドマイヤグルーヴなどを所有し、2019年11月17日に亡くなるまでにJRA重賞60勝、うちGI級競走13勝という実績を残した。
競馬ファンの間では、名馬のオーナーとしてだけでなく、合建株式会社の経営者としても知られている。また、近藤英子との結婚・離婚、後妻となった近藤旬子への馬主活動の継承も、人物像を理解するうえで要点だ。2026年現在もアドマイヤの冠名は競馬界に残り、次世代へと受け継がれている。
【この記事の重要ポイントまとめ】
- 人物像: 1942年生まれの実業家・馬主。2019年11月17日に77歳で死去した。
- 競馬実績: 1984年に馬主資格を取得し、JRA重賞60勝、GI級13勝を達成。「アドマイヤ」の冠名で知られる。
- 家族・事業: 近藤英子とは合建株式会社を共同で立ち上げた関係。後妻の近藤旬子が馬主活動と競走馬を引き継いだ。
【人物像】近藤利一とはどんな人物だったのか?1942年生まれの実業家・馬主
近藤利一は、競馬界で大きな存在感を示した大阪を拠点とする実業家である。
1942年9月1日に徳島県で生まれ、実業家として建築解体関連の事業に携わる一方、1980年代から中央競馬の馬主として活動した。
特に知られているのが、所有馬に付ける「アドマイヤ」という冠名だ。
アドマイヤとは、英語の「admire(称賛する、敬服する)」に由来する名称として知られる。近藤が所有する競走馬の多くにこの冠名が付けられ、競馬ファンにとって一つのブランドのような存在になった。
合建株式会社の経営者としての顔
近藤が代表取締役会長を務めていたのが、合建株式会社である。
同社は大阪市北区に拠点を置く、はつり・建築解体工事を手掛ける会社として紹介されている。
「はつり」とは、コンクリートなどを削ったり、壊したりする建設関連の専門作業を指す。一般の競馬ファンには馬主としての印象が強い近藤だが、その活動を支えた背景には、競馬とは別の事業経営があった。
近藤は馬主活動だけを職業としていた人物ではない。実業家としての経営基盤を持ちながら、競走馬の購入、育成、調教師への預託などを継続していた点が特徴だ。
また、2009年の『経済界』掲載インタビューでは、企業の業績向上と社会貢献の両立について語る人物として紹介されている。
【馬主としての出発点】1984年の資格取得とカイタイオー、橋田満との関係
近藤利一の競馬人生が始まったのは、1984年に中央競馬の馬主資格を取得したことが大きな転機だった。
興味深いのは、近藤がもともとギャンブルを好んでいたわけではなかったという点である。
友人に競馬場へ誘われたことをきっかけに競馬に関心を持ち、次第に馬主として競走馬を所有するようになったと伝えられている。
最初の所有馬カイタイオー
近藤の初期の馬主活動を語るうえで欠かせない競走馬が、カイタイオーである。
JRAの競走馬情報によると、カイタイオーは1985年6月3日生まれの牡馬で、馬主は近藤利一、管理調教師は栗東所属の橋田満だった。
1988年8月28日の函館競馬場で行われた4歳未勝利戦では1着となり、中央競馬で勝利を記録している。
現在の華やかなアドマイヤ軍団を知る競馬ファンからすると、最初の所有馬が重賞常連の名馬ではなく、未勝利戦で勝利を挙げた一頭だったという経緯は興味深い。
橋田満との長期的な関係
橋田満は、近藤の馬主活動初期から関わった調教師である。
カイタイオーの管理を担当したことはJRAの公式競走馬データにも記録されている。
その後も近藤は複数の有力馬を所有し、調教師や生産牧場との関係を築いていった。
馬主の仕事は、単に高額な競走馬を購入することではない。血統の選択、預託先の決定、育成環境、出走レースの判断など、多くの関係者との協力が必要になる。
近藤の長年にわたる競馬活動は、こうした関係構築を継続してきた結果でもある。
【競馬界での実績】アドマイヤの名馬とJRA重賞60勝・GI級13勝
近藤利一の馬主としての評価を決定づけたのは、1990年代後半から2000年代にかけての活躍だ。
特に1998年から1999年にかけて、アドマイヤコジーンとアドマイヤベガがGI級競走で結果を残したことで、近藤の名前は競馬界で広く知られるようになった。
代表的な所有馬とGI級競走
アドマイヤコジーン
1998年の朝日杯3歳ステークス(現在の朝日杯フューチュリティステークス)を制覇。近藤にとってJRA・GI初制覇となった馬である。
2002年には安田記念も勝利し、マイル路線で強い存在感を示した。
アドマイヤベガ
1999年の日本ダービーを制した代表的な所有馬だ。
競馬の最高峰とされる日本ダービーを勝利したことで、アドマイヤの冠名はさらに注目を集めた。
アドマイヤドン
2001年の朝日杯フューチュリティステークスを制覇。2004年にはフェブラリーステークスも勝利し、芝・ダート双方で実績を残した。
アドマイヤグルーヴ
2003年と2004年のエリザベス女王杯を連覇した牝馬。牝馬路線におけるアドマイヤの代表的な存在となった。
アドマイヤムーン
2007年の宝塚記念などを制した名馬である。同年にはドバイデューティフリー(現在のドバイターフ)も勝利し、海外GI級競走でも実績を残した。
アドマイヤマーズ
2019年のNHKマイルカップを制した馬。近藤が亡くなる前にJRAのGI勝利を記録した代表的な後期の所有馬である。
JRA重賞60勝・GI級13勝の意味
近藤の通算成績は、競馬データベースのnetkeibaにおいて、重賞勝利60回と記録されている。
そのうちJRA・GI級競走は13勝。単に一頭の名馬に恵まれたというだけではなく、複数の世代にわたって有力馬を送り出してきたことが数字から分かる。
海外でも2007年にアドマイヤムーンがドバイデューティフリーを、2014年にはアドマイヤラクティがオーストラリアのコーフィールドカップを制した。
つまり、近藤の実績を評価するときには、JRAの重賞60勝とGI級13勝だけでなく、海外GI級競走での勝利も分けて把握する必要がある。
さらに2017年のセレクトセールでは、ディープインパクト産駒の牡馬を税抜き5億8,000万円で落札。国内セール史上2位の高額取引として報じられた。
レースでの実績に加え、競走馬市場における購買力や存在感も大きかった。
【人物・組織の関係図】近藤利一と近藤英子・近藤旬子・合建株式会社
近藤利一を調べると、近藤英子と近藤旬子という二人の女性の名前が登場する。
この二人は近藤の人生において異なる時期に関係した人物であり、競馬界での役割も異なる。
混同しないために、それぞれの関係を整理する。
| 人物・組織 | 近藤利一との関係 | 確認できる事実 |
|---|---|---|
| 近藤英子 | 前妻 | 合建株式会社を共同で立ち上げた。自身も著名な馬主として活動 |
| 近藤旬子 | 後妻 | 2019年の死去時の妻。競走馬の名義を引き継ぎ、自身の馬主資格も取得 |
| 合建株式会社 | 事業上の関係 | 近藤が代表取締役会長を務めた建築解体関連会社 |
| 橋田満 | 調教師 | 初期の所有馬カイタイオーを管理 |
| カイタイオー | 初期の所有馬 | JRA登録上の馬主は近藤利一、管理調教師は橋田満 |
| アドマイヤ | 競走馬の冠名 | 近藤を代表する馬主ブランドとして定着 |
近藤英子との結婚と合建株式会社の創業
近藤英子は、近藤利一の前妻であり、自身も競馬界で知られた馬主である。
2007年8月のJRA発行『優駿』では、二人のロングインタビュー「近藤利一&英子夫妻『和』のチカラ、偉大なり」が掲載された。
二人は大阪で出会い、結婚後に合建株式会社を共同で立ち上げた。その後、夫婦関係は解消され、離婚している。
英子は離婚後も独立した馬主として活動した。
代表的な所有馬には、2007年の皐月賞を勝ったヴィクトリーがいる。また、カンパニーは2009年に8歳で天皇賞(秋)とマイルチャンピオンシップを制し、JRA賞特別賞を受賞した。
利一と英子は、夫婦としてだけでなく、それぞれが競馬界で実績を残した馬主という点でも特徴的な関係だった。
近藤旬子は利一の死後に馬主活動を引き継いだ
近藤旬子は、利一の後妻であり、2019年11月17日の死去時に妻だった人物である。
利一の死後、所有馬の名義は旬子へ引き継がれた。
さらに旬子自身も2020年7月に馬主資格を取得。同月19日の函館記念をアドマイヤジャスタで制し、自身名義での重賞初制覇を達成した。
その後、2024年12月にはアドマイヤズームで朝日杯フューチュリティステークスを制覇。自身にとって初めてのGI勝利となった。
ここで注意したいのは、利一のGI級13勝と旬子自身の馬主としての実績は別の記録だということだ。
アドマイヤの冠名は共通していても、馬主名義と勝利実績は区別して理解する必要がある。
【死去とその後】2019年11月17日から2026年まで続くアドマイヤの系譜
近藤利一は2019年11月17日早朝、大阪市内の病院で亡くなった。77歳だった。
同年夏にはがんを公表しており、闘病生活を送っていたことがスポーツ紙などで報じられている。
訃報が報じられた際には、関係者から追悼の声が相次いだ。
スポニチの報道では、アドマイヤジュピタやアドマイヤマーズなどを管理した友道康夫調教師が、近藤との長年の関係を振り返り、突然の訃報に驚きと悲しみを示した。
また、ミルコ・デムーロ騎手も、近藤から多くの騎乗機会を与えられたことに触れ、深い感謝を表していた。
2026年にはアドマイヤテラが凱旋門賞に挑戦
2026年のアドマイヤの動きを語るうえで注目されたのが、近藤旬子が所有するアドマイヤテラの凱旋門賞挑戦である。
2026年9月30日のnetkeibaのインタビューでは、旬子が先代の利一から受け継いだ思いや、アドマイヤミヤビに由来する血統への思い入れを語っている。
アドマイヤテラの母はアドマイヤミヤビであり、この牝馬は利一の死後に旬子が引き継いだ馬だった。
そして2026年10月4日、フランスのパリロンシャン競馬場で行われた凱旋門賞に出走。結果は11着だった。
これは利一自身が凱旋門賞に出走させたという話ではない。旬子の時代に実現した海外最高峰への挑戦である。
それでも、先代から引き継がれた馬の血統と冠名が、次の世代の競馬活動につながっていることは象徴的だ。
近藤利一が亡くなってから約7年が経過した2026年現在も、アドマイヤの名前は国内外の競馬で見られる。
【プロの結論】近藤利一の本当の功績は名馬の所有だけではない
近藤利一の経歴を振り返ると、評価すべき要点は大きく三つある。
第一に、1984年の馬主資格取得から2019年まで、長期にわたって競馬界に関わり続けたことだ。
アドマイヤコジーンからアドマイヤベガ、アドマイヤドン、アドマイヤグルーヴ、アドマイヤムーン、アドマイヤマーズまで、異なる世代の名馬を所有した実績は大きい。
第二に、実業家としての経営基盤を持ちながら、競走馬の購入やセレクトセールへの参加を積極的に行ったことだ。
競馬の世界では、馬主、調教師、生産牧場、騎手など、多くの関係者が一つの競走馬を支える。近藤はそのネットワークの中心に位置する有力馬主の一人だった。
第三に、死後も馬主活動と血統が受け継がれていることだ。
旬子が自身の馬主資格を取得し、アドマイヤズームでGIを制し、さらにアドマイヤテラで凱旋門賞に挑戦したことは、単なる名義変更にとどまらない継承の一例といえる。
近藤利一という人物を理解するには、GI13勝という数字だけを見るのでは不十分だ。事業家としての背景、英子との共同創業、旬子への馬主活動の継承、そして長年にわたる競馬関係者とのつながりまで見ることで、その全体像が浮かび上がる。
【近藤利一に関するよくある質問(FAQ)】
Q1:近藤利一はいつ亡くなった?
2019年11月17日に亡くなった。77歳だった。2019年夏にがんを公表し、闘病生活を送っていた。
Q2:近藤利一のJRA重賞勝利数とGI勝利数は?
JRA重賞は通算60勝、うちJRA・GI級競走は13勝。海外ではアドマイヤムーンによる2007年のドバイデューティフリー、アドマイヤラクティによる2014年のコーフィールドカップなども制している。
Q3:近藤利一の妻は近藤英子と近藤旬子のどちら?
近藤英子は前妻で、合建株式会社を共同で立ち上げた人物。近藤旬子は後妻であり、2019年の死去時の妻だった。死後は旬子が競走馬を引き継いでいる。
Q4:近藤利一が最初に所有した馬は?
カイタイオーである。JRAの競走馬情報には、馬主が近藤利一、調教師が橋田満と記録されている。1988年の函館競馬場で未勝利戦を勝利した。
Q5:合建株式会社はどのような会社?
大阪市北区に拠点を置く、はつり・建築解体工事関連の会社として紹介されている。近藤利一は代表取締役会長を務め、近藤英子と共同で立ち上げた経緯がある。
Q6:2026年現在もアドマイヤの冠名は使われている?
使われている。近藤旬子が馬主として活動を続けており、2026年10月にはアドマイヤテラが凱旋門賞に出走した。結果は11着だった。
まとめ:近藤利一の経歴はアドマイヤの歴史そのもの
近藤利一は、1942年に徳島県で生まれ、実業家として合建株式会社の経営に携わりながら、1984年からJRAの馬主として活躍した人物である。
アドマイヤコジーンのGI初制覇を皮切りに、アドマイヤベガ、アドマイヤドン、アドマイヤグルーヴ、アドマイヤムーンなどの名馬を所有。生涯でJRA重賞60勝、GI級13勝という実績を残した。
家族関係では、前妻の近藤英子と共同で会社を立ち上げ、後妻の近藤旬子が死後に馬主活動を引き継いだという経緯がある。
2019年11月17日の死去によって近藤本人の馬主活動は終わったが、アドマイヤの冠名と血統は2026年現在も競馬界に残っている。
近藤利一を知ることは、単に一人の有名馬主の経歴を知ることではない。日本競馬を彩った名馬と、その誕生を支えた馬主・調教師・生産者の関係、そして次世代への継承を理解することでもある。
主な事実確認資料: JRA公式競走馬データ、JRAの2026年凱旋門賞結果、スポーツニッポンの訃報記事、デイリースポーツの競馬報道、netkeibaの馬主成績および2026年近藤旬子インタビュー。