加茂田重政(かもだ・しげまさ)は、三代目山口組の幹部を務め、1984年の山口組分裂後は一和会の副会長兼理事長として山一抗争に関わった人物です。1930年に神戸市で生まれ、加茂田組の組長として勢力を築きましたが、1988年に組織の解散と引退を表明しました。2020年9月1日に90歳で亡くなったことが報じられています。
加茂田重政の生い立ちや三代目山口組での役職、竹中正久・山本広との関係、加茂田組の解散、死因をめぐる情報、著書『烈侠』までを時系列で整理します。2026年現在も関心を集める背景には、本人の回想と公的記録を通じて、昭和の暴力団社会と山口組分裂の経緯をたどれることがあります。
【この記事の重要ポイントまとめ】
- 経歴:神戸市出身。三代目山口組の幹部を経て、一和会の副会長兼理事長を務めた。
- 引退:山一抗争を経て、1988年に加茂田組の解散と自身の引退を表明した。
- 死去・著書:2020年9月1日に90歳で死去。自らの半生を振り返った『烈侠』は2016年に刊行され、2022年には文庫版が発売された。
【加茂田重政とは】生い立ちと加茂田組を築くまで

加茂田重政は1930年7月6日、神戸市に生まれました。書籍の著者紹介では、神戸市長田区の番町で育った人物として紹介されています。少年時代から戦後の愚連隊時代を経て、三代目山口組の傘下で組織を拡大していったことが、経歴を理解するうえでの出発点です。
出版社の彩図社が掲載する著者略歴によると、加茂田は愚連隊「わさび会」の客分を経て三代目山口組に入りました。その後、自らの組織を率い、加茂田会から加茂田組へと発展させていきます。加茂田組は神戸を拠点とする組織で、のちに山口組の有力な傘下組織となりました。
加茂田重政の経歴を特徴づけるのは、単に一つの組織の長だったという点ではありません。三代目山口組の執行部に加わり、組長交代をめぐる対立では一方の陣営を選び、山口組から離脱した後も一和会の中枢を担ったことです。組織内の人間関係と後継者問題が、本人の立場を大きく変えていきました。
なお、加茂田の少年時代や戦争体験、愚連隊時代については、本人の回想を含む著書『烈侠』が詳しい手がかりになります。ただし、回想録は当事者の視点を伝える資料であり、個々の出来事については、刊行物の記述と公的記録、同時代の報道を区別して読む必要があります。
【経歴を時系列で整理】三代目山口組から1988年の引退まで
加茂田重政の歩みを理解するには、三代目山口組での昇進、1984年の分裂、一和会への参加、1988年の引退を一続きの流れとして見ることが重要です。国立国会図書館の書誌情報と出版社の著者略歴、山一抗争に関する報道をもとに、主な節目をまとめました。
| 時期 | 主な出来事 | 経歴上の意味 |
|---|---|---|
| 1930年7月6日 | 神戸市に生まれる | 長田区番町で育ったと紹介されている |
| 戦後 | 愚連隊「わさび会」の客分を経て山口組入り | 加茂田会を結成し、後に加茂田組へ発展 |
| 三代目山口組時代 | 若頭補佐、組長代行補佐などを歴任 | 山口組の幹部として組織運営に関わる |
| 1984年 | 山口組を離れ、一和会に参加 | 一和会の副会長兼理事長を務める |
| 1984~1989年 | 山口組と一和会の山一抗争 | 一和会の主要幹部として対立の渦中に立つ |
| 1988年 | 加茂田組の解散と引退を表明 | 暴力団組織の長としての活動に区切りをつける |
| 2016年8月 | 著書『烈侠』を刊行 | 半生と山一抗争についての回想を公表 |
| 2020年9月1日 | 90歳で死去したと報じられる | 国立国会図書館の著者典拠も1930~2020年と記載 |
| 2022年 | 『烈侠』の文庫版が刊行 | 彩図社から再刊され、著作を通じて経歴をたどれる |
経歴の節目を追うと、加茂田重政の立場は、山口組の内部で昇進する段階から、分裂後の一和会で組織を支える段階へと変化しています。そして抗争の終結に向かう過程で、自らの組織を解散して引退しました。
役職名については、三代目山口組の若頭補佐と組長代行補佐、一和会の副会長兼理事長、加茂田組の組長を混同しないことが大切です。それぞれ異なる組織・時期における肩書であり、同一の役職を指すものではありません。
【山口組分裂と山一抗争】竹中正久・山本広との関係
加茂田重政の名が広く知られるようになった大きな理由が、山口組の四代目組長をめぐる対立と、1984年から1989年にかけての山一抗争です。警察庁の公表資料や当時を振り返る報道では、三代目組長の田岡一雄が1981年に死去した後、後継者問題が組織の分裂につながった経緯が整理されています。
四代目をめぐる争いでは、竹中正久と山本広が中心人物となりました。1984年6月、竹中を四代目とする人事に反対したグループが山口組を離脱し、山本広を会長とする一和会を結成します。加茂田重政も一和会に参加し、副会長兼理事長という中枢の役職を担いました。
この対立は、単なる幹部同士の個人的な確執ではありません。組長の後継者を誰にするのか、先代の意向をどう解釈するのか、組織内の序列や人間関係をどう維持するのかという問題が重なっていました。山口組の分裂は、長年続いてきた組織の統率が崩れた結果でもあったのです。
1985年1月には竹中正久らが銃撃され、竹中は翌27日に死亡しました。この事件を契機に対立は激化し、山口組と一和会の抗争は全国に広がりました。文春オンラインが当時を振り返った記事では、双方の間で300件以上の事件が発生し、死者25人、重軽傷者約70人に上ったと説明されています。一方、『烈侠』を紹介した別の記事では死者29人と記されており、集計の対象や資料によって数字に差が見られます。
加茂田と竹中の関係については、本人の回想も重要です。『烈侠』からの抜粋を掲載した文春オンラインの記事では、加茂田が、当初は山本広が四代目を継ぐものと考えていたことや、自身が四代目になるつもりはなかったことを語っています。これは加茂田本人の認識を示す証言であり、後継者問題の全容を確定する唯一の説明ではありません。
また、山本広は一和会の会長として加茂田と同じ陣営に立った人物です。加茂田は一和会の中枢を担い、山一抗争の主要人物として歴史に名を残しました。しかし、組織の分裂によって対立が長期化した結果、一和会は次第に弱体化し、加茂田自身も組織の存続を断念する方向へ進みます。
【1988年の加茂田組解散】引退の経緯と一和会の終焉
加茂田重政が1988年に加茂田組の解散と引退を表明したことは、出版社の著者略歴にも記載されています。長年率いてきた組織を解散する決断は、本人の経歴における大きな転換点でした。
引退の背景には、山一抗争による一和会の弱体化と、抗争を継続することの負担がありました。1985年の竹中正久銃撃事件以降、山口組側の報復などによって対立は激化し、一和会の勢力は縮小していきます。組織の維持が難しくなるなかで、加茂田組の解散もその流れの中に位置づけられます。
ただし、加茂田組の解散と山一抗争そのものの終結は、同じ出来事ではありません。加茂田が引退したのは1988年ですが、一和会の解散と山一抗争の終結は1989年の出来事です。山本広が引退し、一和会が解散に向かったことで、長期にわたる対立は最終的な区切りを迎えました。
この時間差は、組織の幹部が個別に引退しても、組織間の対立が直ちに終わるわけではないことを示しています。加茂田重政の引退は一つの組織の終幕でしたが、山口組分裂をめぐる歴史全体では、複数の幹部の離脱や引退、組織再編が積み重なっていったのです。
加茂田組の解散後、加茂田重政は公の場で組織の指揮を執る立場から退きました。その後の生活については、著書『烈侠』の「引退、その後」という章が手がかりになります。ただし、引退後の私生活に関する情報は、抗争当時の役職や組織の動向に比べると限られています。
【死去と死因】2020年の訃報から2026年現在まで
加茂田重政は2020年9月1日に死去したと報じられました。享年90。国立国会図書館の著者典拠でも生没年は1930~2020年と記録されており、2026年現在、本人はすでに亡くなっています。
一方、加茂田重政の死因については、死去日や享年と同じ確度で確認できる公的な発表が見当たりません。訃報を伝えた記事や関係者の証言を紹介する二次情報は存在しますが、個別の健康状態や死の直前の状況を、確定した死因として扱うことはできません。公表情報からは、死因を特定できないというのが実情です。
検索で見かける「加茂田重政の現在」という言葉も、本人が現在活動しているという意味ではありません。2026年時点で確認できる主な情報は、過去の役職や山一抗争に関する記録、2020年の訃報、そして本人の著書です。近年の本人による活動や発言を紹介することはできません。
また、「加茂田重政が死去した」という事実と、「死因が公表されている」ということは別です。訃報の年月日や年齢は国立国会図書館の書誌情報とも整合しますが、死因については別途、信頼できる発表や報道が必要です。健康状態に関する伝聞を、確定した医学的な原因として結びつけるのは適切ではありません。
2026年現在の加茂田重政を知るうえで大切なのは、現在の活動を探すことよりも、残された記録や著作を通じて、どのような役職を担い、どのような決断を下した人物だったのかを理解することです。
【著書『烈侠』を読む】本人の回想から分かること
加茂田重政の半生を知るうえで、重要な資料の一つが著書『烈侠 山口組史上最大の抗争と激動の半生』です。国立国会図書館の書誌情報によると、同書はサイゾーから2016年8月に刊行され、297ページの単行本として登録されています。2022年には彩図社から文庫版が刊行されました。
文庫版の出版社紹介によると、本書は加茂田本人の語りと関係者への取材を通じ、少年時代、愚連隊時代、加茂田組の拡大、山一抗争、引退後の生活などを扱っています。章立てにも「少年時代、戦争、愚連隊」「山一抗争と加茂田組」「引退、その後」といった項目が並び、人物の生涯をたどる構成になっています。
『烈侠』を読む際に注目したいのは、後継者問題や一和会結成の経緯について、加茂田自身がどのように認識していたかという点です。山口組分裂の背景を、組織の外側から見た報道だけでなく、当事者の立場から理解する手がかりになります。
ただし、回想録には、本人の記憶や当時の立場、後年になって整理された認識が反映されます。たとえば「三代目の遺言」をめぐる説明についても、加茂田本人の主張と、後継者選びを扱った報道や他の関係者の証言を照らし合わせることが欠かせません。本人が語ったこと自体は重要な資料ですが、それだけで対立のすべてが説明できるわけではありません。
一方で、加茂田の経歴を整理する際には、国立国会図書館の書誌情報が刊行年や著者名を確認する手がかりとなり、出版社の紹介文が役職や組織の変遷を把握する助けになります。こうした資料と同時代の報道を組み合わせることで、個人の回想と歴史的な出来事を区別しながら読み進められます。
【加茂田重政】に関するよくある質問(FAQ)
Q1:加茂田重政はどのような人物ですか?
A1:1930年に神戸市で生まれた元暴力団幹部です。三代目山口組の幹部を務めた後、山口組から離脱して一和会の副会長兼理事長となり、加茂田組の組長として山一抗争に関わりました。
Q2:加茂田重政はいつ亡くなりましたか?死因は何ですか?
A2:2020年9月1日に90歳で亡くなったと報じられています。一方、死因については、公表された確かな情報から特定できません。
Q3:加茂田組はいつ解散し、加茂田重政はいつ引退しましたか?
A3:1988年に加茂田組の解散と自身の引退を表明しました。一和会の解散と山一抗争の終結は1989年であり、加茂田組の解散とは時期が異なります。
まとめ:加茂田重政の生涯を理解するための判断基準
加茂田重政の経歴は、神戸での生い立ちと愚連隊時代、三代目山口組での昇進、1984年の一和会への参加、山一抗争、1988年の加茂田組解散と引退、そして2020年の死去という流れで整理できます。2026年現在、本人の活動を示す新たな情報ではなく、過去の記録と著作がその生涯を知る主な手がかりです。
人物像を理解するうえでは、三つの点を押さえておく必要があります。第一に、役職と所属組織は時期によって異なること。第二に、加茂田組の解散と一和会の解散、山一抗争の終結は、それぞれ別の出来事であること。第三に、死去の年月日が確認できても、死因まで公表されているとは限らないことです。
『烈侠』は、加茂田重政自身の視点から昭和の暴力団社会と山口組分裂を知るための資料です。同時に、国立国会図書館の書誌情報や警察庁の公表資料、当時の報道と照らし合わせることで、回想と確認可能な歴史的事実を区別できます。加茂田重政の生涯をたどることは、山一抗争の経緯だけでなく、組織の後継者問題が大規模な対立へ発展した背景を理解することにもつながります。