デヴィ夫人の若い頃は、現在の華やかでゴージャスな姿からは想像しにくいほど、波乱に満ちた人生を歩んでいました。旧姓は根本七保子(ねもと・なおこ)。1940年2月6日に東京で生まれ、戦中・戦後の貧しい家庭で育ちました。学生時代には家計を支えるために働き、都立三田高校の定時制に通いながら千代田生命に勤務。その後、赤坂の高級サパークラブで働くようになります。
19歳のときにインドネシアのスカルノ大統領と出会い、やがて大統領夫人となったデヴィ夫人。若い頃の写真が現在も注目される理由は、その美貌だけではありません。幼少期の苦労、仕事と勉強を両立した努力、外国の要人と交流できる語学力、そして国際社会で生き抜いた行動力が、現在の独特な存在感につながっています。2026年の最新情報も交えながら、その歩みをたどります。
【この記事の重要ポイントまとめ】
- 若い頃の本名:根本七保子。1940年生まれで、2026年10月現在86歳。
- 学生・会社員時代:三田高校の定時制に通い、千代田生命で働きながら赤坂の高級クラブでも活動した。
- 人生の転機:19歳でスカルノ大統領と出会い、22歳の頃にはインドネシアの大統領夫人として国際舞台に立った。
【写真で振り返る】デヴィ夫人の若い頃は本当に美人だった?
デヴィ夫人の若い頃の写真を見ると、現在の華やかなファッションや堂々とした立ち居振る舞いにつながる、洗練された雰囲気が感じられます。10代から20代にかけての写真は、テレビ番組や報道でもたびたび紹介されてきました。
特に注目されたのが、1958年にスカルノ大統領へ送った写真です。2022年に放送された読売テレビの番組『八方・陣内・方正の黄金列伝!』では、当時の写真が紹介されました。若い頃の姿を伝える貴重な資料として、現在も関心を集めています。
若い頃の美貌が注目される理由
デヴィ夫人は、単に美しい女性として知られていただけではありません。赤坂の高級サパークラブで働き、海外の富裕層や外国人の顧客と接する環境に身を置いていました。そこで培われた英語力や社交性も、後の人生に大きな影響を与えています。
2019年にフジテレビが紹介した60年前の写真も印象的です。本人が長年大切に保管していた写真で、デヴィ夫人自身が「デヴィ夫人」になる転機を象徴する一枚として取り上げられました。
また、パリに移住した後には、社交界で「東洋の真珠」と称されるようになります。この呼び名は、若い頃からの美貌に加えて、国際的な社交界で存在感を発揮したことを背景に持つものです。
つまり、デヴィ夫人の若い頃の美しさは、現在の華やかなイメージにつながる重要な要素ですが、その評価を美貌だけに限定することはできません。教養や語学力、立ち居振る舞いまで含めた魅力が、国際的な評価につながっていったのです。
【生い立ちと幼少期】根本七保子はどんな家庭で育った?
デヴィ夫人は1940年2月6日、東京市麻布区霞町(現在の東京都港区西麻布周辺)に生まれました。国立国会図書館の典拠データにも、根本七保子という日本名が記録されています。
父親は大工で、母親と弟とともに暮らしていました。しかし、家庭は決して裕福ではありませんでした。父親は目を患い、母親も足が悪かったため、生活には苦労があったといいます。
戦争と貧困を経験した少女時代
デヴィ夫人は、幼い頃に戦争を経験しています。本人が2019年のインタビューで語ったところによると、空襲警報が鳴るたびに母親と弟と避難し、戦争末期には福島県浪江町へ疎開しました。
疎開先でも食料事情は厳しく、東京に戻ってからも食べ物を手に入れるのは簡単ではありませんでした。母親の代わりに農村へ買い出しに出かけることもあったと振り返っています。
こうした経験から、幼い頃から母親と弟を支えたいという気持ちを強く持つようになりました。
画家を夢見ていた少女
意外に知られていないのが、デヴィ夫人が幼少期から絵を描くことを得意としていた点です。本人によれば、周囲から才能を評価され、母親も内職でお金を貯めて絵の先生をつけてくれました。
しかし、当時は女性画家として生計を立てることが難しい時代でした。画家になっても母親と弟を養えないと考え、夢を諦めることになります。
その後は女優を目指し、演技や歌、踊りを学びました。映画やテレビの小さな役を経験した時期もあります。
金融広報中央委員会の本人インタビューでは、母親が学校の月謝を借りていたことを知り、自分が家計を支えなければならないと決意したエピソードも紹介されています。
現在のセレブリティーとしての姿とは対照的ですが、若い頃のデヴィ夫人を理解するうえで、この家庭環境は欠かせない背景です。
【学生時代と仕事】三田高校定時制・千代田生命・赤坂の高級クラブ
中学校を卒業したデヴィ夫人は、家計を支えるために就職しました。昼間は生命保険会社で働き、夜は学校に通い、さらにアルバイトや芸能活動にも取り組むという忙しい生活を送っていました。
千代田生命で働きながら都立三田高校の定時制へ
就職先は千代田生命です。現在のジブラルタ生命につながる生命保険会社で、本人のインタビューによれば、入社倍率は約150倍だったといいます。
昼間は千代田生命の社員として働き、夜は都立三田高校の定時制に通学。さらに昼休みや休日には喫茶店でアルバイトをしていました。
本人は当時の生活について、次のように語っています。
「私は人の3倍勉強して、人の3倍働いて、人の3倍努力して、人の3分の1の睡眠でやってきました」
この言葉は、Wendy-Netの2019年の本人インタビューで紹介されたものです。現在の華やかな姿の裏側には、若い頃から積み重ねてきた努力がありました。
なお、三田高校については、講談社のデジタル版日本人名大辞典で中退と記載されています。定時制に通っていたことと、卒業したことは区別して理解する必要があります。
赤坂の高級サパークラブ「コパカバーナ」へ
会社員生活の後、デヴィ夫人の人生に新たな転機が訪れます。それが赤坂にあった高級サパークラブ「コパカバーナ」との出会いです。
Wendy-Netのインタビューによると、知人に連れて行ってもらったことをきっかけに店のマダムに気に入られ、アルバイトを始めました。
当時のコパカバーナは、外国人の富裕層や海外の要人も訪れる社交場でした。本人の説明では、顧客の約9割が外国人だったといいます。
この環境で磨かれた英語力は、後にスカルノ大統領と交流する際にも役立ちました。単に高収入を得られる仕事というだけでなく、国際的な人脈や文化に触れる機会を得た場所でもあったのです。
当時の収入については、大卒者の月給に相当する金額を一晩で稼いだと紹介する報道もあります。貧しい家庭を支えるために働いていた少女が、国際的な社交の場で存在感を発揮するようになったことは、人生の大きな転換点でした。
【19歳で運命の出会い】スカルノ大統領との結婚は何歳?
デヴィ夫人の人生を大きく変えたのが、インドネシア初代大統領スカルノとの出会いです。
出会ったのは1959年。デヴィ夫人は19歳でした。当時のスカルノ大統領はインドネシアの独立を主導した国家指導者であり、国際的にも大きな影響力を持つ人物でした。
偶然の出会いからインドネシアへ
出会いの経緯については、複数の記録があります。
インドネシア大統領府のアーカイブ資料では、スカルノが1959年6月16日に赤坂のコパカバーナを訪れ、そこで根本七保子と出会ったとする説明が紹介されています。
一方、2017年の日刊スポーツの報道では、デヴィ夫人自身がテレビ番組で語った別のエピソードが紹介されています。友人と映画を見に行くために待ち合わせをしていたところ、偶然スカルノ大統領一行が通りかかり、お茶の席に招かれたという内容です。
このように、出会いの具体的な場所や状況には異なる説明があります。ただし、1959年に19歳でスカルノと知り合い、その後インドネシアへ招かれたという大きな流れは複数の資料で確認できます。
Wendy-Netのインタビューでは、出会いから約3カ月後にインドネシアへの招待を受けたと本人が語っています。ジャカルタで大統領の姿や国民から敬愛される様子を見て、強い感銘を受けたそうです。
結婚は1962年?1959年との違いを整理
デヴィ夫人の結婚年については、実は資料によって違いがあります。
1959年11月に結婚したと記載する日本のプロフィールがある一方、国際的な人物研究やインドネシア側のアーカイブでは1962年を結婚年とする記録もあります。インドネシア大統領府のアーカイブは、1962年3月3日に婚姻したとする説と、1964年に正式に結婚したとする説を紹介しています。
また、海外のVanity Fairによる1992年の人物記事では、1959年11月3日に非公式の誓いを交わし、1963年3月3日に正式に結婚したという経緯が記されています。
こうした違いは、出会い、結婚の約束、非公式の儀式、婚姻の正式な成立を、資料によって異なる時点で扱っていることが背景にあります。
一般的なプロフィールで紹介される1962年という年を採用する場合、1940年2月6日生まれのデヴィ夫人は22歳です。つまり、19歳で出会い、22歳の頃に大統領夫人としての立場を確立したというのが、広く知られる人生の流れです。
人生の主要な転換点を年表で整理
| 時期・年齢 | 出来事・関係者 | 内容・意味 |
|---|---|---|
| 1940年 | 根本七保子として誕生 | 東京市麻布区霞町の大工の家庭に生まれる。 |
| 幼少期 | 家族・戦争体験 | 戦争や貧困を経験し、母と弟を支えたいという思いを抱く。 |
| 10代前半~後半 | 千代田生命・三田高校 | 会社員と定時制高校生を両立する。 |
| 10代後半 | 赤坂コパカバーナ | 高級サパークラブで働き、英語力や社交性を磨く。 |
| 1959年・19歳 | スカルノ大統領 | 運命の出会いを果たし、インドネシアへ招かれる。 |
| 1962年・22歳 | ラトナ・サリ・デヴィ・スカルノ | 結婚・インドネシア国籍取得の時期として広く紹介される。 |
| 1970年 | パリへ亡命 | 政変とスカルノの死を経て、フランスに生活拠点を移す。 |
| 1991年 | ニューヨーク | アメリカへ移住し、国際的な活動を続ける。 |
| 2000年前後以降 | 日本のテレビ番組 | タレントとしての活動が広がる。 |
| 2026年 | 86歳 | 慈善活動や情報発信を続ける一方、刑事裁判の判決も報じられた。 |
【東洋の真珠】大統領夫人になった後の人生とパリ社交界
デヴィ夫人の人生は、スカルノ大統領と結婚したことで終わったわけではありません。むしろ、その後に国際社会の中で新しい役割を担うことになります。
ラトナ・サリ・デヴィ・スカルノという名前
インドネシア国籍を取得した際、デヴィ夫人はスカルノ大統領からラトナ・サリ・デヴィ・スカルノという名前を与えられました。
それまでの根本七保子から、国際的に知られるデヴィ・スカルノへと名前が変わったことは、人生の大きな節目です。
金融広報中央委員会のインタビューでは、インドネシアへ渡った後、母親と弟を相次いで亡くした経験についても本人が語っています。家族を支えるために働いてきた彼女にとって、非常につらい出来事でした。
1970年の政変とパリへの亡命
1970年6月、スカルノ大統領が亡くなります。インドネシアの政変を経て、デヴィ夫人は幼い娘とともにフランスへ移り住みました。
パリでは社交界に身を置き、王侯貴族や各国の著名人と交流します。この時期に「東洋の真珠」と称されるようになりました。
その後はインドネシアで事業に取り組み、1991年にはニューヨークへ移住。国連環境計画(UNEP)の特別顧問として活動した経歴も紹介されています。
50代からタレントとして新しい人生へ
デヴィ夫人は、50歳頃を人生の新しい転機として振り返っています。
金融広報中央委員会のインタビューでは、大統領夫人という肩書きから離れ、自分自身の人生を自由に生きたいと考えたことが語られています。
その後、日本のテレビ番組から出演依頼が届くようになり、バラエティー番組やイベント、講演などで活動するようになりました。
国際的な社交界で培った経験と、物おじしない発言、華やかなファッションは、テレビの世界でも独特の個性として受け入れられていきます。
【2026年最新】デヴィ夫人の現在は?86歳の活動と近況
2026年10月現在、デヴィ夫人は86歳です。1940年2月6日生まれで、長い国際経験を持つタレント・文化人として知られています。
86歳の誕生日にはUNHCR支援のチャリティーイベント
2026年2月9日には、国連UNHCR協会へのチャリティーガラパーティーを東京都内で開催しました。翌10日には本人の公式ブログでもイベントの様子を報告しています。
日刊スポーツの報道によると、誕生日を祝う席で若さの秘訣を尋ねられた際、デヴィ夫人は精神力を挙げ、毎朝鏡を見て年を取らないと言い聞かせることや、美しいもの、愛するものに囲まれていることを話しました。
2026年10月にも公式ブログの更新が確認でき、テレビ出演だけに限定されない情報発信を続けています。
動物愛護活動と政治団体の動き
2025年2月には、動物愛護を掲げる政治団体「12(ワンニャン)平和党」の設立を発表しました。犬猫の保護や動物虐待の厳罰化などを政策として掲げ、参議院選挙への候補者擁立を目指していました。
しかし、同年4月25日、団体の公式発表を通じて活動の終了と解散が明らかになりました。2026年現在、この政治団体は活動を継続していません。
2026年10月には罰金20万円の有罪判決
現在のデヴィ夫人を語るうえでは、2025年に起きた事務所関係者への暴行事件をめぐる裁判にも触れる必要があります。
2026年10月6日、東京地方裁判所は、2025年2月の飲食店での事務所女性従業員への行為と、同年10月の動物病院での元マネジャーへの行為について、暴行罪に問われたデヴィ夫人に罰金20万円の有罪判決を言い渡しました。
判決では、元従業員や元マネジャーの証言などを踏まえて暴行が認定されました。一方、デヴィ夫人は判決後の取材でも、シャンパングラスを投げたという点については否定する発言をしています。
長年にわたり築いてきた華やかな芸能活動や社会的なイメージとは別に、現在はこうした裁判の結果も含めて、その活動が注目されています。
【プロの結論】デヴィ夫人の若い頃から読み取れる本当の魅力
デヴィ夫人の若い頃を振り返ると、人生を変えた要素は美貌だけではなかったことが分かります。
幼少期の貧困、家族を支えるための就職、三田高校の定時制での勉強、千代田生命での勤務、赤坂の高級クラブで磨いた英語力。これらの経験が積み重なり、19歳でスカルノ大統領と出会った後の人生を支える土台になりました。
特に注目したいのは、赤坂のコパカバーナでの経験です。海外の富裕層や外国人と接する環境で英語力を磨き、異なる文化や価値観を理解する機会を得たことは、後のパリ社交界での活躍にもつながっています。
また、50歳頃に大統領夫人という肩書きから離れ、タレントとして新しい人生を選んだ点にも、彼女の行動力が表れています。
若い頃の写真だけを見て「生まれつき美しい女性だった」と理解するのではなく、写真の背景にある生活や努力まで知ることで、デヴィ夫人という人物の全体像が見えてきます。
【デヴィ夫人の若い頃】に関するよくある質問(FAQ)
Q1:デヴィ夫人の若い頃の本名は何ですか?
A1:根本七保子(ねもと・なおこ)です。インドネシア国籍を取得した後は、スカルノ大統領から与えられたラトナ・サリ・デヴィ・スカルノという名前を使用しています。
Q2:デヴィ夫人はスカルノ大統領と何歳で結婚しましたか?
A2:19歳の1959年にスカルノ大統領と出会い、一般的なプロフィールでは22歳頃の1962年に結婚したと紹介されています。ただし、1959年の非公式な儀式や1963年の正式婚姻など、資料によって記録に違いがあります。
Q3:デヴィ夫人は三田高校を卒業していますか?
A3:都立三田高校の定時制に通っていたことは本人のインタビューでも確認できます。ただし、講談社のデジタル版日本人名大辞典では中退と記載されています。
Q4:デヴィ夫人は若い頃、どこで働いていましたか?
A4:千代田生命で勤務した後、赤坂の高級サパークラブ「コパカバーナ」で働いていました。外国人客との交流を通じて英語力や社交性を磨いたと本人が語っています。
Q5:2026年現在、デヴィ夫人は何歳ですか?
A5:2026年10月現在86歳です。チャリティーイベントや公式ブログでの情報発信を続けています。また、2026年10月6日には暴行罪について罰金20万円の有罪判決が言い渡されました。
まとめ:デヴィ夫人の若い頃は美貌と努力で切り開いた人生だった
デヴィ夫人の若い頃は、単なる美人タレントの過去ではありません。根本七保子として生まれ、戦争と貧困を経験し、母親と弟を支えるために働きながら勉強を続けた少女時代がありました。
千代田生命での勤務、三田高校の定時制、赤坂の高級クラブでの経験を経て、19歳でスカルノ大統領と出会い、インドネシアの大統領夫人へと人生を大きく変えていきました。
その後もパリの社交界で「東洋の真珠」と称され、ニューヨークでの生活、日本でのタレント活動など、何度も人生の転機を経験しています。
2026年現在は86歳。若い頃の写真に映る美しさだけでなく、困難な環境から自分の人生を切り開いてきた行動力こそ、デヴィ夫人という人物を理解するための大切なポイントです。
昔の写真を見る際には、撮影された年代や当時の立場にも注目してみてください。根本七保子からラトナ・サリ・デヴィ・スカルノ、そしてデヴィ夫人へ。その変化を追うことで、彼女の波乱万丈な人生がより鮮明に見えてきます。
主な確認資料: 国立国会図書館典拠データ、金融広報中央委員会の本人インタビュー、Wendy-Netの本人インタビュー、インドネシア大統領府アーカイブ、フジテレビ、オリコン、日刊スポーツ、TBS NEWS DIG、FNNプライムオンライン。