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香港九龍城砦はなぜ「無法地帯」に?歴史・撤去理由・2026年の現在を徹底解説

黒瀬 亮 黒瀬 亮 • 更新: • 公開: • 読了約 22 分
目次

香港の九龍城砦(九龍寨城)は、かつて約2.6ヘクタールの土地に数万人が暮らし、建物が隙間なく連なる異様な景観で世界的に知られた場所です。迷路のような路地、窓のない部屋、屋上を縫う配管、そして行政の目が届きにくい環境。その姿は「無法地帯」や「九龍城砦の闇」といった言葉とともに語り継がれてきました。

しかし、九龍城砦は最初から犯罪の街だったわけではありません。清朝が海防のために築いた軍事拠点が、英国による香港統治と中国側の主権主張が交錯する特殊な場所となり、戦後の人口流入を経て、世界でも類を見ない高密度の居住空間へ変貌したのです。1987年の撤去決定を経て1994年に解体が完了し、現在は九龍寨城公園として歴史の一部が保存されています。2026年の現在地まで、史実と住民の暮らしの両面から、その実像を追います。

【この記事の重要ポイントまとめ】
  • 歴史:1847年、清朝が海岸防衛の軍事拠点として九龍城砦を整備。1898〜1899年の統治権をめぐる対立が、その後の特殊な行政環境につながりました。
  • 無法地帯の真相:行政サービスや建築規制が十分に行き届かず、犯罪や衛生問題が深刻化した一方、住民同士の助け合いや日常的な商業活動も存在しました。
  • 解体の経緯:1987年に撤去方針が公表され、1993年3月に解体が始まり、1994年4月に完了しました。
  • 2026年の現在:跡地は九龍寨城公園となり、清朝時代の衙門と南門の遺構が保存されています。公園は1995年12月22日に一般公開されました。

【歴史の出発点】九龍城砦はなぜ建設され、特殊な場所になったのか

香港九龍城砦

九龍城砦の歴史を理解するには、戦後の密集住宅だけでなく、19世紀の香港をめぐる中国と英国の関係までさかのぼる必要があります。もともとの九龍城砦は、無秩序に建物が集まった住宅地ではなく、軍事と行政の機能を備えた清朝の拠点でした。

1847年、清朝が築いた海防の要塞

香港特別行政区の古物古蹟辦事處が公開する歴史資料によると、九龍城砦は1847年、清朝政府によって軍事拠点として整備されました。海岸防衛を強化することが主な目的で、数百人規模の兵士が駐屯し、周辺地域を管理する行政機能も担っていました。

城壁は花崗岩の大きな石材を用いて築かれ、見張り塔や門を備えていました。内部には役所、兵舎などが設けられ、その中心的な施設の一つが「衙門(がもん)」です。衙門とは、当時の地方行政を担う役所を指します。

この時代の九龍城砦は、住民が密集する巨大なスラムではありません。清朝の行政機構が周辺地域を管理し、軍事的な役割を果たす場所でした。後世の「暗黒都市」というイメージだけでは、出発点にあった本来の役割を見失ってしまいます。

1898〜1899年、管轄権をめぐる対立が発生

九龍城砦の運命を大きく変えたのが、1898年の英国と清朝の関係です。英国は同年の協定に基づき、香港の新界地域を99年間租借することになりました。一方、九龍城砦については、中国側の官吏が引き続き管轄権を行使するという特別な扱いが盛り込まれていました。

ところが、1899年には英国側の軍事行動によって清朝の官吏や兵士が排除され、現地の統治をめぐる状況は一段と複雑になります。英国側は自らの管轄権を主張したものの、中国側も九龍城砦に対する権利を手放したとは認めませんでした。

ここで重要なのは、「中国にも英国にも一切の法的権限がなかった」と単純化できないことです。両者の主張が衝突し、実際の行政や警察活動が十分に機能しない状態が長く続いたことが、九龍城砦の特殊性を生みました。

2022年に学術誌『Architectural Histories』に掲載された九龍城砦の土地管理と境界を扱う研究も、清朝の土地管理制度と英国の地籍・行政制度が交錯した歴史に注目しています。九龍城砦の異質な立場は、単なる統治の空白ではなく、異なる政治権力と土地管理の仕組みが重なった結果でもあったのです。

1940年代、日本占領下で城壁が撤去される

九龍城砦の外観を変えたもう一つの大きな出来事が、第二次世界大戦中の日本による香港占領です。1940年代には、啓徳空港の拡張に伴い、九龍城砦の城壁が取り壊され、その石材が空港の拡張工事に利用されました。

香港政府の歴史資料でも、城壁の撤去と啓徳空港の拡張との関係が説明されています。つまり、現在の写真で見られる高密度なコンクリート建築群は、かつての城壁に囲まれた軍事要塞がそのまま残った姿ではありません。軍事拠点としての機能が失われた土地に、戦後の住宅や商業施設が増殖した結果なのです。

【検証資料 1】当時のメディア報道・掲載写真(出典:media-platform.com)

【年表で整理】九龍城砦の歴史と1987年の撤去決定から1994年の解体まで

九龍城砦は、清朝の軍事拠点から、統治権が争われる区域、そして戦後の高密度な居住地へと姿を変えました。主な出来事を時系列で整理すると、現在の九龍寨城公園がどのような経緯で生まれたのかが分かります。

時期 主な出来事 歴史的な意味
1847年 清朝が九龍城砦を軍事拠点として整備 海防と周辺地域の行政を担う要塞都市として出発
1898年 新界地域の英国租借と九龍城砦の特別な扱い 中国側の管轄権をめぐる問題が残る
1899年 英国側が清朝の官吏・兵士を排除 統治権をめぐる対立が深まり、行政の空白が生じる
1940年代 日本占領下で城壁を撤去し、啓徳空港を拡張 軍事要塞としての外観が失われる
戦後〜1970年代 人口流入と建物の増加、犯罪組織の影響、警察の取り締まり 高密度な住宅地へ変貌し、生活環境と治安が社会問題になる
1987年 香港政庁が撤去・公園化の方針を公表 住民の移転と跡地の再整備が具体化
1991〜1992年 住民・事業者の立ち退きが進む 解体に向けた移転手続きが進展
1993年3月 九龍城砦の解体工事が始まる 密集した建物群の撤去が本格化
1994年4月 解体が完了 約150年にわたる歴史的な場所が建築群としての姿を失う
1995年12月22日 九龍寨城公園が一般公開 跡地が歴史遺構と中国式庭園を備えた公園へ転換
1996年 衙門と南門の遺構が法定古跡に指定 現存する歴史遺産の保護が進む

この年表で押さえておきたいのは、1987年の撤去決定と1994年の解体完了は、同じ出来事ではないという点です。撤去方針が公表されてから、住民や事業者の移転、建物の撤去、遺構の調査・保存という段階を経て、現在の公園が整備されました。

香港政府の観光・地域案内資料や古物古蹟辦事處の説明によれば、解体工事中には南門の基礎部分と石製の銘板が発見され、保存する方針が取られました。歴史的な建築物をすべて撤去するのではなく、重要な遺構を現地に残すことになったのです。

【無法地帯の真相】人口密度と住民の暮らしはどれほど過酷だったのか

九龍城砦が世界的な関心を集める理由の一つは、極端に高密度な建築と、そこで営まれていた日常生活の対比にあります。写真だけを見ると、人間が住むこと自体が難しそうな空間に映りますが、実際には住宅、商店、工場、診療所などが集まり、数万人規模の生活圏が形成されていました。

約2.6ヘクタールに約3万3,000人が暮らした

九龍城砦の面積は、資料によって若干の差があるものの、約2.6ヘクタールとされます。1987年の調査に基づく人口推計は約3万3,000人です。この2つの数字を用いて単純計算すると、人口密度は1平方キロメートル当たり約127万人に相当します。

ただし、人口の数字には注意が必要です。公的な人口調査が限られていたため、資料によっては4万人、あるいはそれ以上の推計も見られます。居住者の数を正確に把握しにくい環境だったことも、九龍城砦の特徴の一つでした。

人口密度の高さを生んだのは、単に住民が多かったからではありません。建築規制や土地利用の管理が十分に行われず、限られた土地の上に建物が次々と増築されたことが大きな要因でした。建物同士が接近し、隣の建物とつながるような構造も生まれ、地上から上層階まで複雑な空間が広がっていきました。

住民の暮らしを支えた商店、工場、診療所

九龍城砦には、住宅だけでなく、小規模な食品工場、製造業の作業場、食料品店、理髪店、診療所、歯科医院なども集まっていました。生活に必要なサービスの一部が街の内部で完結していたため、住民は狭い範囲で仕事と生活を営むことができました。

行政の認可や建築基準の面で問題を抱えた事業所も多く、無許可の歯科診療所などは九龍城砦を象徴する存在として知られています。しかし、こうした場所を犯罪のためだけに存在した施設と捉えるのは正確ではありません。公的なサービスが十分に行き届かない環境の中で、住民の需要に応える商売やサービスも発達していたからです。

2018年に学術誌『Land Use Policy』に掲載された生活の質に関する研究は、九龍城砦が無秩序な場所だったという一般的なイメージを、住民の証言や記録を踏まえて再検討しています。建築環境の劣悪さを認めながらも、住宅の使い方や地域社会のつながりを含めて評価する必要性を指摘しています。

暗い路地と屋上がつくった独特の生活空間

九龍城砦の写真で特徴的なのは、外壁が密着するように並んだ建物と、建物の隙間に伸びる細い通路です。内部の採光や通風が不十分な部屋もあり、配管や電線が複雑に交差していました。建物の構造や衛生設備の面で、一般的な都市住宅と比べて大きな問題を抱えていたことは否定できません。

一方、屋上は単なる建物の上部ではなく、洗濯物を干す場所、子どもが遊ぶ場所、住民が休憩する場所などとして使われました。周囲の建物と連続する屋上空間は、地上の狭い路地とは異なる生活の場でもありました。

水道についても、十分な公的インフラが行き届かない場所では、ポンプや配管を利用して水を上階へ送るなど、住民や建物の管理者が独自の方法で供給を補うことがありました。こうした仕組みは生活を成り立たせる一方、設備の安全性や衛生面の不安を抱えていました。

「無法地帯」は本当か?犯罪と地域社会を分けて考える

九龍城砦では、歴史の一時期に犯罪組織の影響が強まり、賭博、麻薬、売春などの違法行為が広がりました。行政の監督が十分に行き届かず、警察活動にも制約があったため、「無法地帯」という呼び名が定着しました。

しかし、犯罪組織の存在と、そこに暮らす人々の日常生活は区別して考える必要があります。住民全員が犯罪に関わっていたわけではなく、多くの人々が働き、子どもを育て、近隣住民との関係を築いていました。生活の場としての九龍城砦には、危険性だけでなく、相互扶助や地域のつながりも存在していたのです。

また、1970年代には香港警察による大規模な取り締まりが行われ、犯罪組織の影響を抑える動きが進みました。この経緯からも、九龍城砦が歴史を通じて一貫して誰も管理できない場所だったという説明は正確ではありません。

【プロの結論】九龍城砦を理解するうえで重要なのは、「犯罪の街」か「住民が助け合う街」かという二者択一を避けることです。深刻な衛生問題や違法行為があった一方、そこで暮らす人々には仕事や家族、日常の人間関係がありました。都市の問題を評価する際には、建物や制度の欠陥と、そこに生きた人々の実態を切り分ける必要があります。

【検証資料 2】活動歴および当時の関連ビジュアル記録(出典:jbpress.ismcdn.jp)

【取り壊し理由を検証】なぜ1987年に撤去が決まり、1994年に姿を消したのか

九龍城砦の取り壊しは、単に古い建物を新しい公園へ置き換えるための工事ではありませんでした。居住環境の悪化、建築物の安全性、衛生上の問題、行政による管理の難しさが重なり、長期的な対応が求められていたのです。

衛生・防災・建物の安全性が大きな課題に

九龍城砦では、計画的な都市整備や建築基準の適用が十分に行われず、建物が密集していました。狭い通路、採光や換気の不足、不十分な排水設備などは、日々の生活に影響する問題でした。

また、建物が複雑につながり、設備や配線が入り組んだ環境は、火災や事故への対応を難しくします。建物の安全性を一斉に改善するにも、行政の権限や土地管理をめぐる複雑な事情が障害となっていました。

香港政庁にとっては、危険な環境を改善するために個別の建物を修繕するだけでは不十分でした。人口が密集し、建物が連続する区域全体を再整備することが、抜本的な解決策として浮上したのです。

1987年、撤去と公園化の方針を公表

中国と英国は、香港の将来に関する1984年の共同宣言などを背景に、九龍城砦の問題にも対応を進めました。1987年1月、香港政庁は九龍城砦を撤去し、その跡地を公園にする方針を公表しました。

この決定は、長年にわたる特殊な行政環境を終わらせると同時に、居住環境の改善を図るためのものでした。撤去に向けては、住民や事業者の移転が必要となり、補償や立ち退きをめぐる手続きも進められました。1991〜1992年には移転が本格化しましたが、住民側の受け止め方は一様ではなく、補償や移転に不満を持つ人々もいました。

1993年3月に解体開始、1994年4月に完了

九龍城砦の解体工事は1993年3月に始まり、1994年4月に完了しました。香港の英字紙『サウスチャイナ・モーニング・ポスト』は、1993年3月の工事開始を当時のニュースとして報じています。撤去は長い歴史を持つ居住地の終焉であり、住民にとっては暮らしの場所を失う出来事でもありました。

解体作業では、建物を撤去するだけでなく、歴史的に重要な遺構を調査する作業も行われました。南門の基礎部分や石製の銘板が発見されたことを受け、これらは現地に保存されることになりました。また、衙門も保存・修復され、1996年には南門の遺構とともに法定古跡に指定されています。

解体後の跡地には、約3万1,000平方メートルの九龍寨城公園が整備され、1995年12月22日に一般公開されました。かつて密集した建物が覆っていた土地は、樹木や池、東屋を備えた中国式庭園へと姿を変えたのです。

ここで押さえたいのは、九龍城砦の解体が犯罪組織を排除するためだけに行われたのではないという点です。住民の生活環境、建物の安全性、衛生面、土地管理の難しさなど、複数の課題が重なっていたことが、撤去と再整備の背景にありました。

【2026年の現在】九龍寨城公園の見どころと残された歴史遺構

2026年現在、九龍城砦そのものは現存していません。跡地は九龍寨城公園となり、清朝時代の行政施設や城門の遺構を通じて、かつての歴史をたどることができます。公園は緑豊かな空間として整備されており、かつての密集した建物群とは対照的な景観が広がっています。

衙門(がもん):清朝時代の行政機能を伝える建築

公園の中心的な歴史遺構が、保存・修復された衙門です。香港特別行政区の古物古蹟辦事處によると、この建物は九龍の副官級の行政官が執務した役所で、3つの棟と2つの中庭を持つ構造です。灰色のれんがや瓦屋根を用いた、実用性を重視した建築が特徴となっています。

建物の中央部分は執務の場、後方の建物は行政官の居住空間として使われました。清朝の官吏が去った1899年以降は、老人ホーム、孤児や寡婦のための施設、学校、診療所など、時代に応じて用途が変化しました。

衙門を見学する意義は、九龍城砦が最初から無秩序な住宅地だったわけではないことを、現存する建築から理解できる点にあります。城壁や高密度住宅の写真だけでは見えにくい、軍事と行政の歴史を伝える重要な遺構です。

南門遺跡:2枚の石製銘板が伝える城砦の記憶

もう一つの重要な見どころが、九龍城砦の南門の遺構です。解体時の考古学調査で、南門と東門の基礎部分が良好な状態で残っていることが分かり、なかでも南門からは「南門」と「九龍寨城」の文字が刻まれた石製銘板が発見されました。

香港政府の古物古蹟辦事處は、これらの遺構を現地に保存する方針を採り、南門の遺構は1996年に法定古跡に指定されました。城壁そのものは第二次世界大戦中に失われましたが、門の痕跡と銘板は、かつてこの場所が要塞として機能していたことを示しています。

江南庭園の様式と、かつての街並みとの対比

九龍寨城公園は、清朝初期の江南庭園を参考に設計されています。池や中国式の東屋、季節ごとの植栽などを組み合わせた景観が特徴で、園内には四季の庭園や中国の十二支を題材にした庭園など、複数の景観エリアがあります。

かつての九龍城砦を写した航空写真では、建物が密集し、屋上や建物の隙間まで利用された空間が目立ちます。一方、現在の公園の写真には、樹木や池、開けた園路が広がり、建物の密集感はありません。この「昔と現在」の違いは、単に建物が撤去されたというだけでなく、土地の用途が生活と商業の密集地から、歴史遺構を保存する公共空間へ転換したことを示しています。

ただし、現在の公園は九龍城砦を実物大で再現した施設ではありません。かつての住宅、工場、路地の大部分は失われており、残るのは衙門や南門の遺構、展示資料などです。かつての生活空間を具体的に知りたい場合は、歴史写真や当時の住民の証言、建築・都市史の研究資料とあわせて見ることで、現地に残る遺構の意味がより明確になります。

【検証資料 3】公の場での発言・インタビュー報道記録(出典:jbpress.ismcdn.jp)

【九龍城砦】に関するよくある質問(FAQ)

Q1:香港九龍城砦は本当に無法地帯だったのですか? A1:犯罪組織の影響が強まり、違法な商売や行政サービスの不足が問題となった時期があり、「無法地帯」と呼ばれました。ただし、住民全員が犯罪に関与していたわけではなく、一般の家庭や商店、工場、診療所なども存在しました。地域の実態を理解するには、治安問題と日常生活の両方を見る必要があります。

Q2:九龍城砦はなぜ取り壊されたのですか? A2:主な背景には、過密な居住環境、衛生問題、建物の安全性、行政による管理の難しさがありました。1987年に撤去と公園化の方針が公表され、住民の移転を経て1993年3月に解体が始まり、1994年4月に完了しました。

Q3:2026年現在、九龍城砦の建物は残っていますか? A3:かつての高密度な住宅群は残っていません。跡地は九龍寨城公園として整備され、清朝時代の衙門と南門の遺構が保存されています。公園は1995年12月22日に一般公開され、両遺構は1996年に法定古跡に指定されました。

まとめ:【プロの結論】九龍城砦が現代の都市に残した教訓

九龍城砦の歴史は、清朝の軍事拠点として始まり、1898〜1899年の統治権をめぐる対立、戦後の人口流入、高密度な住宅地の形成、1987年の撤去決定、1994年の解体という流れで理解できます。その背景には、政治的な特殊性だけでなく、住宅不足、建築規制、公共サービス、住民の生活といった複数の要素がありました。

「無法地帯」という言葉は、九龍城砦の治安や行政上の問題を端的に表す一方、そこに暮らした数万人の生活を十分に説明するものではありません。違法行為や劣悪な環境が存在したことと、住民が日々の仕事や家族生活を営んでいたことは、同時に成立します。

2026年現在、九龍寨城公園に残る衙門と南門遺跡は、かつての九龍城砦を考えるための貴重な手がかりです。現地の歴史遺構に加え、当時の写真、住民の証言、香港政府の歴史資料、学術研究を照らし合わせることで、伝説化されたイメージと実際の都市生活との違いが見えてきます。

九龍城砦が残した最大の教訓は、都市の問題を「犯罪」や「無秩序」という言葉だけで片づけられないことです。行政の責任、住宅環境の安全性、住民の暮らし、歴史遺産の保存をどう両立させるか。その問いは、建物が消えた今も、都市計画や住環境を考えるうえで意味を持ち続けています。

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