ホーム 芸能人プロフィール・現在 竹脇昌作アナウンサーとは?NHK経歴・東京ダイヤルと生涯、竹脇無我との親子関係を徹底解説

竹脇昌作アナウンサーとは?NHK経歴・東京ダイヤルと生涯、竹脇無我との親子関係を徹底解説

藤咲 尚 藤咲 尚 • 更新: • 公開: • 読了約 18 分
目次

竹脇昌作(たけわき・しょうさく)は、昭和初期から戦後にかけて、ニュース映画のナレーターやラジオのニュース解説者として活躍した人物です。NHKのアナウンサー養成過程を経て、米国のパラマウント・ニュースをはじめとするニュース映画の解説を担当。1957年にはラジオ東京の生ワイド番組「東京ダイヤル」に出演し、独特の語り口で人気を集めました。

俳優・竹脇無我の父親としても知られていますが、昌作自身の生涯には、NHKでの経歴や出生地をめぐる資料の違い、晩年の病気と1959年の死去など、詳しく知る機会の少ない事柄が残されています。2026年現在、人物事典や放送史研究、保存番組の記録を手がかりに、その足跡と放送文化への功績を整理します。

【この記事の重要ポイントまとめ】
  • 経歴:ニュース映画のナレーションとラジオ東京「東京ダイヤル」で知られる、昭和期のアナウンサー・ニュース解説者。
  • 生年月日・出身地:1910年9月5日生まれ。人物事典では東京出身とされる一方、一部の二次資料には異説もある。
  • 竹脇無我との関係:俳優・竹脇無我の父親で、無我は昌作の三男にあたる。
  • 死去:1959年11月9日、49歳で死去。人物事典には自殺と記録されている。
  • 現在の評価:ニュース映画の音声表現と民放ラジオの発展を考えるうえで、記録に残る重要な存在。

【竹脇昌作はどんな人物だったのか】昭和の放送文化を支えた異色のアナウンサー

竹脇昌作アナウンサー

竹脇昌作は、テレビが家庭に普及する以前の時代に、声と言葉によってニュースを伝えたアナウンサーです。ラジオ放送だけでなく、映画館で上映されるニュース映画の解説も担当し、複数のメディアを通じて知られるようになりました。

日外アソシエーツの『20世紀日本人名事典』や『新撰 芸能人物事典 明治〜平成』、講談社の『デジタル版 日本人名大辞典+Plus』では、竹脇昌作をニュースショー解説者、ニュース映画ナレーター、アナウンサーとして紹介しています。生年月日は1910年9月5日、没年月日は1959年11月9日とする記載が確認できます。

昌作の特徴として伝えられているのは、明瞭な発音と独特のテンポ、そして印象的な声です。放送史を研究するデーブ川崎(川崎隆章)氏の解説では、竹脇の声は低音の響きだけでなく、言葉の切れやすさ、音節を明確に伝える話し方に特色があったと分析されています。

現在のアナウンサーのように、テレビ画面に顔を出して視聴者に認知される時代ではありません。ニュース映画の上映館やラジオ受信機を通じて、姿を見せずに声で存在感を示すことが、当時の人気につながりました。

竹脇昌作を理解するうえで押さえたいのは、単にNHKに所属していた人物というだけではない点です。ニュース映画の語り手として知名度を築き、戦後の民間ラジオで再び注目を集めたという、放送史と映画史の両方にまたがる経歴が特徴です。

【NHK入局から東京ダイヤルまで】竹脇昌作の経歴・年表

竹脇昌作の経歴には、NHKでの採用時期と在籍の経緯について、資料によって表現の違いがあります。人物事典では1933年(昭和8年)にNHKへ入局したと記載されていますが、放送史を扱う解説では、1934年(昭和9年)の全国規模のアナウンサー公募に合格し、養成期間中に退職または解雇されたと説明されています。

この違いを理解するには、採用・養成の過程と、その後の職業上の実績を分けて考える必要があります。竹脇昌作は、NHKで長期間勤務したアナウンサーとして知られるというより、ニュース映画のナレーションで評価を高め、後年ラジオ東京で人気を得た人物です。

主な経歴を時系列で整理すると、次のようになります。

時期 出来事・活動 資料から読み取れるポイント
1910年9月5日 誕生 人物事典類に記載された生年月日。出生地は東京とする記載が中心。
1933〜1934年ごろ NHKのアナウンサー養成過程 人物事典と放送史解説で年次・在籍経緯の記述に違いがある。
1930〜1940年代 ニュース映画のナレーション パラマウント・ニュースや国内のニュース映画などで解説を担当。
1957年4月 ラジオ東京「東京ダイヤル」に出演 夕方の生ワイド番組で、ニュース解説や進行を担った。
1958年10月17日 「東京ダイヤル 浅草特集」放送 放送番組センターの放送ライブラリーに、本人が出演した番組記録が残る。
1959年11月9日 死去 49歳。人物事典では自殺と記録されている。
1992年 ナレーション集のCDが発売 息子の竹脇無我が「竹脇昌作が語る『日本かく戦えり』」を編集・発売したと人物事典に記載。

この年表から分かるのは、昌作の活動がNHKの在籍期間だけでは捉えきれないことです。ニュース映画の分野で実績を積み、戦後のラジオ番組で再び活躍したことが、彼の経歴を形づくっています。

なお、NHK時代の具体的な退職経緯については、放送史の解説に採用後の養成期間中に退職・解雇されたとの記述があります。政治活動が理由だったという説にも触れられていますが、正確な理由は公表されていないとされています。したがって、退職理由を確定した事実として扱うことはできません。

【パラマウント・ニュースの解説者】竹脇昌作の評判とニュース映画での功績

竹脇昌作の名声を語るうえで欠かせないのが、映画館で上映されていたニュース映画です。テレビが普及する前、ニュース映画は国内外の出来事や社会の動きを映像で伝える主要なメディアの一つでした。観客は映像を見るだけでなく、ナレーターの声を通じて出来事の意味や背景を受け取っていました。

日本映像学会の学術論文「声の動員――1930-40年代記録映画におけるラジオアナウンサーと弁士」では、当時のニュース映画のナレーションをラジオアナウンサーが担っていたことや、竹脇昌作が『朝日ニュース』に参加し、『東日大毎国際ニュース』『パラマウントニュース』などの専任解説者を務めたことが論じられています。

人物事典の記述では、特にパラマウント・ニュースについて、第1号から第411号までの大半を竹脇が担当したとされています。長期にわたる担当実績は、ニュース映画の分野で彼が重要な語り手だったことを示すものです。

当時のニュース映画は、今日の動画ニュースと同じものではありません。上映館で作品を見てもらう必要があり、限られた上映時間の中で、映像と音声によって情報を伝えなければなりませんでした。その環境では、聞き取りやすさ、説明のテンポ、映像との調和がナレーターの実力を左右しました。

竹脇の評判を支えたのは、こうした条件に合った語り口だったと考えられます。デーブ川崎氏の放送史解説でも、明瞭な発音と独特のアーティキュレーション、つまり言葉を区切って明確に伝える技術が強調されています。

一方、ニュース映画は単なる娯楽ではありませんでした。戦時中には国策やプロパガンダに関わる映像も制作され、ナレーションは映像の受け止め方に影響を与えました。竹脇の仕事を歴史的に評価する際には、話術の巧みさだけでなく、当時のメディアが果たした社会的な役割も併せて見る必要があります。

【東京ダイヤルで人気を獲得】ラジオ東京での活躍と独特の語り口

戦後の竹脇昌作を語るうえで重要なのが、ラジオ東京の「東京ダイヤル」です。人物事典によると、昌作は1957年4月から同番組のディスクジョッキーとして活躍しました。番組は夕方の生ワイド形式で、ニュースや生活情報を扱うものでした。

放送番組センターの放送ライブラリーには、1958年10月17日放送の「東京ダイヤル 浅草特集」が保存番組として登録されています。記録には竹脇昌作の出演が明記され、浅草寺本堂落慶の模様を伝えた番組概要も掲載されています。これは、彼の活動を確認できる具体的な放送記録です。

同番組で竹脇が注目された理由として、独特の語り口が挙げられます。気象情報に関する回顧記事などでは、低音の声と個性的なイントネーションから「マダムキラー」と評されたことが紹介されています。こうした呼び名は当時の評判を伝える表現ですが、聴取者全体の評価を数値で示したものではありません。

「東京ダイヤル」は、現在のラジオの生ワイド番組につながる形式を考えるうえでも興味深い存在です。生放送では、映画やレコードのように完成した音声を流す場合とは違い、決められた時間に合わせて進行し、ニュースや話題をその場で伝える能力が大切です。

デーブ川崎氏の解説によると、竹脇のラジオでの活動実績は「東京ダイヤル」に関わった約2年間に集中し、番組の聴取範囲も関東地方が中心でした。それでも彼が広く知られた背景には、ラジオだけでなく、全国各地の映画館で上映されるニュース映画を通じて築いた知名度がありました。

つまり、竹脇昌作は全国放送のラジオ番組で長年活躍した人物というより、映画館と民放ラジオという異なるメディアで独自の存在感を示した人物です。この点は、現在のインターネット上でプロフィールを調べる際に、押さえておきたいポイントです。

【1959年に49歳で死去】死因・死去の経緯と出身地をめぐる資料の違い

竹脇昌作は1959年11月9日に死去しました。1910年9月5日生まれのため、亡くなった時点で49歳でした。日外アソシエーツの人物事典や講談社の『デジタル版 日本人名大辞典+Plus』では、自殺と記録されています。

晩年については、心身の不調による療養中だったことが人物事典に記されています。また、放送史の回顧記事や個人の調査記事では、「東京ダイヤル」降板後の状況や、ラジオ番組への復帰がかなわなかった経緯なども取り上げられています。

ただし、これらの回顧的な説明には、記述の詳しさや根拠となる資料に違いがあります。病状についても、人物事典では「神経を病んで」といった表現や、過労による病気で療養中だったとの説明が見られます。現在の医学的な診断名を確定する一次資料と、後年の人物紹介における表現は区別して読む必要があります。

また、番組の降板や仕事上の困難と死去との関係についても、後年の解説だけで単一の原因を断定することはできません。昌作の最晩年を理解する際には、当時の放送現場の負荷や本人の療養状況が伝えられていることと、それぞれの出来事の因果関係がどこまで裏付けられているかを分けて考えることが大切です。

出身地については、人物事典類では「東京」とする記載が中心です。一方、一部のインターネット上の個人調査記事には、富山県を出生地とする説や新潟県出身説への言及も見られます。こうした記述は、主要な人物事典の記載と一致しておらず、出生地を確定する公的な一次資料も、今回確認できた範囲では明らかではありません。

そのため、竹脇昌作のプロフィールを整理する際には、生年月日と没年月日は人物事典類の記載に基づき、出身地は「東京とする記載が中心だが、異説もある」と理解するのが妥当です。ネット上の複数のページに同じ説が掲載されていても、それだけで独立した裏付けが複数存在するとは限りません。

【竹脇無我との親子関係】父から息子へ受け継がれた声の記憶

竹脇昌作の名前が現在も検索される理由の一つに、息子である俳優・竹脇無我の存在があります。キネマ旬報系の映画人データベース「KINENOTE」などでは、竹脇無我をニュース映画のアナウンサーだった竹脇昌作の三男として紹介しています。

竹脇無我は1944年2月17日生まれで、1960年に松竹映画『しかも彼等は行く』で俳優デビューしました。その後、『大岡越前』『だいこんの花』『姿三四郎』などの作品で知られる俳優となりました。父がニュース映画やラジオで声を通じて知られたのに対し、無我は映画やテレビドラマで俳優として存在感を示しました。

父子の関係を考えるうえで注目されるのが、1992年に発売されたナレーション集のCD「竹脇昌作が語る『日本かく戦えり』」です。人物事典によると、これは竹脇無我が編集・発売した作品です。父の声を音声資料として残す取り組みは、昌作の仕事を後世に伝えるうえで重要な意味を持ちます。

もっとも、父子の関係について、公開資料から分かることは家族関係と音声資料の編集・発売などが中心です。親子の私生活や個人的な感情について、確認できる記録を超えて物語を付け加えることはできません。

竹脇無我の俳優としての知名度をきっかけに父の名前を知った人にとって、昌作の経歴は意外に感じられる可能性があります。しかし、昌作自身もニュース映画の解説者として長い仕事を残した人物です。親子をつなぐ音声資料は、著名な俳優の父という側面だけでなく、放送文化の担い手としての昌作を知る手がかりになります。

【プロの結論】竹脇昌作の功績は「声で伝える技術」の歴史にある

竹脇昌作の経歴を振り返ると、NHKの採用・養成過程、ニュース映画のナレーション、ラジオ東京「東京ダイヤル」という三つの段階が浮かび上がります。その活動は、放送局の所属歴だけでは測れないものでした。

特に重要なのは、ニュース映画の語り手として培った技術が、戦後のラジオでの人気につながった点です。映像と声を組み合わせて情報を伝えるニュース映画では、限られた時間で内容を明瞭に届けることが求められました。ラジオの生放送では、そこに即時性や進行の技術が加わります。竹脇は異なるメディアの間で、自分の声を仕事に結びつけました。

一方で、人気や知名度だけを成功の尺度にすることにも注意が必要です。竹脇の晩年には療養や仕事上の困難があったと伝えられています。残された実績を評価することと、本人が置かれていた状況を理解することは、どちらか一方だけでは成り立ちません。

2026年現在、竹脇昌作本人の活動を追うことはできませんが、放送番組センターの放送ライブラリーには「東京ダイヤル」の出演記録が残り、日本映像学会の研究論文や人物事典にも、ニュース映画の語り手としての足跡が記録されています。過去の放送を知るうえでは、人物紹介だけでなく、実際の番組記録や音声資料に注目することが有効です。

【竹脇昌作アナウンサー】に関するよくある質問(FAQ)

Q1:竹脇昌作アナウンサーの生年月日と出身地は?
A1:生年月日は1910年9月5日です。出身地は主要な人物事典では東京とされていますが、一部の二次資料には富山県や新潟県に関する異説もあります。

Q2:竹脇昌作はNHKでどのような仕事をしていたのですか?
A2:人物事典ではNHKのアナウンサー養成第1期生として紹介されています。ただし、入局年や在籍経緯には資料差があり、放送史の解説では1934年の公募合格後、養成期間中に退職・解雇されたとされています。その後はニュース映画のナレーターとして実績を築きました。

Q3:竹脇昌作の代表的な番組は何ですか?
A3:戦後の代表的な活動として知られるのが、ラジオ東京の「東京ダイヤル」です。1957年4月から出演し、独特の語り口で人気を集めました。放送番組センターの放送ライブラリーには、1958年10月17日放送の「東京ダイヤル 浅草特集」の記録が残っています。

Q4:竹脇昌作の死因は何ですか?
A4:1959年11月9日、49歳で死去し、主要な人物事典には自殺と記録されています。晩年は心身の不調で療養していたとされますが、病状や仕事上の事情については資料によって説明に違いがあります。

Q5:竹脇無我とはどのような親子関係ですか?
A5:竹脇無我は昌作の三男です。俳優として映画やテレビドラマで活躍し、1992年には父のナレーション集CD「竹脇昌作が語る『日本かく戦えり』」を編集・発売したと人物事典に記録されています。

Q6:竹脇昌作は2026年現在、どのように評価されていますか?
A6:現在は、ニュース映画のナレーターと民放ラジオのニュース解説者として放送史に位置づけられています。放送ライブラリーの保存番組、音声資料、人物事典、学術研究を通じて、その独特の語り口とメディア史上の役割をたどることができます。

まとめ:竹脇昌作の生涯と功績を正しく知るために

竹脇昌作は、1910年に生まれ、ニュース映画のナレーションとラジオ東京「東京ダイヤル」で活躍した昭和期のアナウンサー・ニュース解説者です。1959年11月9日に49歳で亡くなりました。俳優・竹脇無我の父親としても知られ、1992年に息子が編集・発売したナレーション集CDは、昌作の声を後世に伝える資料となっています。

NHKでの在籍経緯や出身地については、資料によって記述に違いがあります。また、晩年の病状や死去の経緯についても、人物事典の記録と後年の回顧的な説明を区別して読む必要があります。

竹脇昌作の功績を知るうえで最も大切なのは、息子の知名度や断片的なエピソードだけで人物像を決めつけず、ニュース映画の研究、保存番組、人物事典などを通して活動そのものを捉えることです。声によってニュースを伝える技術がどのように発展してきたのか。その歴史をたどるとき、竹脇昌作の名は今も重要な手がかりになります。

同じカテゴリの記事

藤咲 尚

旅行・住まい・暮らしの話題を担当。自治体の公式観光情報、施設の公開資料、不動産の公的統計を参照し、料金や所在地は発表時点の情報として明記します。

おすすめの関連記事