ホーム 芸能人プロフィール・現在 竹脇昌作アナウンサーの経歴と生涯|NHK退局、東京ダイヤル、1959年の死去を徹底解説

竹脇昌作アナウンサーの経歴と生涯|NHK退局、東京ダイヤル、1959年の死去を徹底解説

小野田 圭 小野田 圭 • 更新: • 公開: • 読了約 18 分
目次

竹脇昌作(たけわき・しょうさく)は、昭和の放送史に名を残したアナウンサー、ニュース映画ナレーター、ニュースショー解説者です。1910年9月5日に生まれ、NHKのアナウンサー養成第1期生として放送の世界に入り、戦前・戦中のニュース映画の解説を経て、1957年からラジオ東京(現在のTBSラジオ)の生ワイド番組「東京ダイヤル」で人気を集めました。

一方、1959年11月9日、49歳で亡くなっています。NHKを離れた経緯や、ニュース映画「パラマウント・ニュース」での実績、俳優・竹脇無我の父親としての一面など、人物事典や放送番組の記録から、その生涯をたどります。

【この記事の重要ポイントまとめ】
  • 経歴:青山学院英文科を卒業後、NHKのアナウンサー養成第1期生となり、ニュース映画の解説者として活躍しました。
  • 代表的な仕事:パラマウント・ニュースのナレーションと、ラジオ東京の「東京ダイヤル」で知られています。
  • 家族:俳優の竹脇無我は三男で、竹脇義果も元ラジオ関東アナウンサーとして知られています。
  • 晩年:1959年11月9日に49歳で死去。1992年には竹脇無我が父のナレーションを収録したCDを編集・発売しました。

【人物像】竹脇昌作とは?青山学院英文科から放送の世界へ

竹脇昌作アナウンサー

竹脇昌作は、テレビが家庭に普及する以前の時代に、声によって映像やニュースに臨場感を与えた放送人です。日外アソシエーツの『新撰 芸能人物事典 明治〜平成』や『20世紀日本人名事典』では、アナウンサー、ニュース映画ナレーター、ニュースショー解説者として紹介されています。

人物事典によると、昌作は1910年9月5日生まれ。学歴は青山学院英文科卒業です。英語を学んだ経歴は、海外の出来事を伝えるニュース映画の仕事とも接点のあるプロフィールでした。

当時、映像付きのニュースを多くの人が目にする手段の一つが、映画館などで上映されるニュース映画でした。現在のテレビニュースやインターネット動画のように、映像と音声が一体となった情報に接する機会は限られていました。ニュース映画のナレーターには、映像の内容を正確に伝える発音、聞き取りやすさ、情報を整理する語りの技術が求められました。

竹脇昌作の評価を考えるうえで重要なのは、単に声が美しかったという点だけではありません。映像の進行に合わせて情報を届け、聞き手が内容を理解しやすいように言葉を運ぶ技術が、彼の仕事の中心にありました。

放送史研究家のデーブ川崎も、昌作の声質や発音の明瞭さ、言葉の切れ味に注目しています。こうした特徴は、後年のラジオ出演だけでなく、ニュース映画のナレーションを通じて広く知られるようになりました。

【検証資料 1】当時のメディア報道・掲載写真(出典:pbs.twimg.com)

【経歴・年表】NHK入局からパラマウント・ニュース、東京ダイヤルまで

竹脇昌作のキャリアは、NHKでのアナウンサー養成から始まり、ニュース映画の解説、戦後の民間ラジオ放送へと移っていきます。人物事典の記述と、放送ライブラリーに残る番組記録を中心に整理すると、次のようになります。

時期 出来事・仕事 確認できる内容
1910年9月5日 誕生 日外アソシエーツの人物事典などに記載。
昭和初期 青山学院英文科を卒業 人物事典に学歴の記載がある。
1933〜1934年ごろ NHKのアナウンサー養成・採用 人物事典と放送史研究家の解説で年次や経緯の説明に違いがある。
戦前・戦中・戦後 ニュース映画の解説・ナレーション パラマウント・ニュースをはじめ、国内外のニュース映画を担当。
1957年4月 ラジオ東京「東京ダイヤル」に出演 ニュースショー草創期の解説者として人気を集めた。
1958年10月17日 「東京ダイヤル 浅草特集」 放送番組センターの放送ライブラリーに番組記録が残る。
1959年11月9日 死去 49歳。人物事典などに没年月日の記載がある。
1992年 ナレーション集のCDを発売 三男の竹脇無我が「竹脇昌作が語る『日本かく戦えり』」を編集・発売。

この年表で注目したいのは、映画館で聞かれるナレーションと、生放送のラジオという異なる媒体の双方で実績を残した点です。映画のナレーションは、あらかじめ編集された映像に声を重ねる仕事。一方、生放送のラジオでは、時間の進行に合わせて情報を伝え、その場の状況にも対応しなければなりません。

竹脇昌作は、前者で磨いた語りの技術を後者へと持ち込みました。放送史研究家のデーブ川崎は、昌作がラジオ東京で活動した期間はおよそ2年で、放送人としての活動期間自体は長くなかったことにも触れています。それでも後世に名前が残ったのは、短い活動期間に強い印象を残したためです。

【パラマウント・ニュース】ニュース映画の解説で発揮したナレーションの力

竹脇昌作の代表的な仕事として、パラマウント・ニュースのナレーションが挙げられます。日外アソシエーツの『新撰 芸能人物事典 明治〜平成』は、昌作が日・英・米のニュース映画を担当し、特にパラマウント・ニュースについては、昭和6年6月の第1号から第411号までのほとんどを手がけたと記しています。

これは、昌作の活動を理解するうえで見逃せない記録です。単発のナレーションではなく、継続して制作されるニュース映画に関わり、多くの映像作品を声で支えたことがうかがえます。

当時のニュース映画は、政治や社会の出来事、海外の話題、科学技術、文化などを映像で伝える重要なメディアでした。テレビ放送が普及する以前、観客はスクリーン上の映像とナレーションを通じて、遠い国の情勢や新しい出来事に触れていました。

放送史研究家のデーブ川崎は、昌作のナレーションについて、落ち着いた低音の響きだけでなく、発音の明瞭さやテンポのよさ、言葉の終わりの切れ味を特徴として挙げています。映画の光学録音では音声の再現に制約があり、聞き手に言葉を確実に届ける発音技術が重要だったという視点も示しています。

昌作の仕事を現代のメディアに置き換えるなら、単なる声の出演者というより、映像の内容を視聴者に届けるための情報設計を担ったナレーターに近い存在です。映像だけでは伝わりにくい背景や意味を言葉で補い、ニュースの理解を助ける役割を果たしました。

一方、ニュース映画のナレーションには、制作側が選んだ映像や編集方針に沿って語るという性格もあります。戦時中には国策ニュース映画などにも昌作の声が残されています。したがって、彼のナレーションを歴史資料として見る場合は、声の技術的な価値と、作品が制作された政治的・社会的背景を分けて考える必要があります。

【検証資料 2】活動歴および当時の関連ビジュアル記録(出典:pbs.twimg.com)

【東京ダイヤル】ラジオ東京で人気を集めた竹脇節と評判

戦後の竹脇昌作を語るうえで欠かせないのが、ラジオ東京の「東京ダイヤル」です。人物事典によると、昌作は1957年4月から同番組のディスクジョッキーとなり、ニュースショーの草創期を支える解説者として活躍しました。

番組の実像を確認できる資料として、公益財団法人放送番組センターが運営する放送ライブラリーがあります。同センターには、1958年10月17日放送の「東京ダイヤル 浅草特集」が登録されています。放送時間は20分で、出演者の一人として竹脇昌作の名前が記載されています。番組概要には、昌作が独特の語りで浅草寺本堂落慶の模様を伝えたことも記されています。

この記録から分かるのは、「東京ダイヤル」が単にスタジオ内でニュースを読み上げる番組ではなかったということです。現場の出来事を伝え、関係者の話を交えながら、聴取者にその場の様子を届ける生ワイド番組でした。

昌作の評判を表す言葉として、後年の紹介記事などでは「竹脇節」や「マダムキラーボイス」が用いられています。低音の響きと歯切れのよい発音、軽快な語り口が組み合わさり、個性の強いアナウンスとして記憶されたことを示す表現です。

当時のラジオは、家庭で日々のニュースや娯楽に触れるための主要なメディアでした。声だけで聴取者の注意を引き、情報を分かりやすく伝え、番組を聞き続けてもらう必要があります。昌作の語り口は、その時代のラジオが求めた表現力と相性がよかったと考えられます。

ただし、現在の視聴率やSNSの反応のような数値を使って、当時の人気を具体的に比較することはできません。人物事典の記述や現存する番組記録から確認できるのは、昌作が人気を集めたことと、独特の語りが番組の特徴として認識されていたことです。

また、ニュース映画と生放送では、求められる能力が異なります。完成済みの映像に合わせるナレーションと違い、生放送では決められた時間に合わせて情報を伝え続けなければなりません。昌作の晩年を理解する際には、この仕事上の違いも重要な背景となります。

【NHK退局・1959年の死去】経緯と晩年に残された課題

竹脇昌作の経歴には、NHKへの入局と、その後の離職をめぐって複数の説明があります。ここは、人物事典と放送史研究家による解説を区別して読む必要がある部分です。

日外アソシエーツの人物事典は、昌作が昭和8年(1933年)にアナウンサー養成第1期生としてNHKに入社し、地方勤務を嫌って退社したと説明しています。

一方、放送史研究家のデーブ川崎は、1934年にNHKが初めて全国を対象にアナウンサーを公募した際に昌作が合格したものの、養成期間中に解雇を言い渡されたと記しています。学生時代の政治活動が理由とされているものの、正確な事情は公表されていないという説明です。

このように、採用年や離職に至る経緯については、資料によって説明が異なります。地方勤務を避けて自ら退職したという人物事典の記述と、養成期間中に解雇されたという放送史研究家の説明は、同じ経緯として単純にまとめることができません。

確実にいえるのは、昌作がNHKで長期にわたり勤務する道を進最初に、その後、ニュース映画の解説者として活動の場を広げたことです。NHKでのキャリアが短かったとしても、それが放送人としての実績全体を決定するわけではありません。むしろ、ニュース映画という別のメディアで独自の地位を築いた点に、昌作のキャリアの特徴があります。

その後、昌作はラジオ東京の「東京ダイヤル」で人気を集めましたが、1959年11月9日に49歳で亡くなりました。講談社の『デジタル版 日本人名大辞典+Plus』などは、過労による病気で療養中に自死したと記しています。

放送史研究家のデーブ川崎も、昌作が「東京ダイヤル」を降板した後に状態が悪化し、同年11月に亡くなった経緯を紹介しています。ただし、当時の仕事上の負荷や療養の経緯が語られていても、死に至った背景を単一の要因だけで説明することはできません。公刊された人物紹介から分かる範囲と、個人の内面に関する推測は分けて考えるべきです。

昌作の生涯は、放送で大きな存在感を示した人物であっても、仕事上の成功だけで人生のすべてを説明できるわけではないことを伝えています。彼の功績を振り返る際には、アナウンス技術の評価と、晩年に関する記録をともに見ていく必要があります。

【検証資料 3】公の場での発言・インタビュー報道記録(出典:lookaside.instagram.com)

【家族】竹脇無我・竹脇義果との関係と、父の声を残した1992年

竹脇昌作の家族で広く知られているのが、俳優の竹脇無我です。日外アソシエーツの人物事典では、無我は昌作の三男と記されています。テレビドラマや映画で活躍した俳優の父が、ニュース映画やラジオで知られた放送人だったという関係です。

竹脇無我は1944年2月17日生まれで、1960年に松竹映画『しかも彼等は行く』で俳優としてデビューしました。その後、テレビドラマ『姿三四郎』などで知られるようになり、昭和の映画・テレビ界で活動しました。父と息子は、声による情報伝達と、映像作品での演技という異なる領域で、それぞれ活動した人物です。

昌作には、竹脇義果という息子もいました。人物事典では、義果は元ラジオ関東アナウンサーとして紹介されています。父と息子がともにアナウンサーとして活動していた点も、竹脇家の経歴を振り返る際の特徴です。

さらに注目されるのが、1992年に竹脇無我が編集・発売したナレーション集のCD「竹脇昌作が語る『日本かく戦えり』」です。これは、昌作の没後にその声を聴くことができる形で残した記録の一つです。

録音された声は、人物の仕事ぶりを後世に伝える貴重な資料になります。文章の経歴だけでは分かりにくい発音の明瞭さ、語りの速度、抑揚、言葉の区切り方などを、実際の音声から確認できるためです。

なお、竹脇昌作の「現在」を調べる読者もいますが、昌作本人は1959年に亡くなっています。2026年現在、本人が活動しているわけではありません。現在の視点からたどれるのは、人物事典に残された経歴や、放送ライブラリーの番組記録、そして後年に編集・発売された音源などです。

家族の関係を知ることは人物理解の手がかりになりますが、昌作の業績を家族の知名度だけで評価するのは適切ではありません。ニュース映画の解説と「東京ダイヤル」での活動を個別に見たうえで、竹脇家の放送・芸能分野での歩みを捉えることが大切です。

【竹脇昌作アナウンサー】に関するよくある質問(FAQ)

Q1:竹脇昌作はどのようなアナウンサーでしたか?
A1:ニュース映画のナレーター、ニュースショー解説者、ラジオ番組のディスクジョッキーとして活動しました。特にパラマウント・ニュースのナレーションと、ラジオ東京の「東京ダイヤル」で知られています。

Q2:竹脇昌作がNHKを離れた理由は何ですか?
A2:日外アソシエーツの人物事典では地方勤務を嫌って退社したとされています。一方、放送史研究家のデーブ川崎は、養成期間中に解雇されたと説明し、政治活動との関係についても触れています。資料によって説明が異なるため、退局理由を一つに断定することはできません。

Q3:竹脇昌作と竹脇無我は親子ですか?
A3:はい。人物事典によると、竹脇無我は竹脇昌作の三男です。無我は映画やテレビドラマで活躍した俳優で、1992年には父のナレーション集CDを編集・発売しました。

Q4:竹脇昌作はいつ亡くなりましたか?
A4:1959年11月9日です。1910年9月5日生まれで、49歳でした。人物事典などには、療養中に自死したことが記録されています。

Q5:竹脇昌作の声やナレーションを現在も確認できますか?
A5:放送ライブラリーには、1958年10月17日放送の「東京ダイヤル 浅草特集」が登録されています。また、1992年には竹脇無我が編集・発売した「竹脇昌作が語る『日本かく戦えり』」というCDもあります。実際の音声資料を通じて、当時の語り口を知る手がかりが残されています。

まとめ:【プロの結論】竹脇昌作の功績をどう評価するか

竹脇昌作の生涯を振り返ると、評価の中心にあるのは、声を通じてニュースや映像の内容を伝える技術です。青山学院英文科を卒業後、NHKのアナウンサー養成第1期生として放送の世界に入り、ニュース映画の解説者として実績を積み、戦後はラジオ東京の「東京ダイヤル」で人気を集めました。

人物事典や放送番組の記録からは、昌作が単に美声で知られた人物ではなく、ニュース映画とラジオという異なるメディアで、言葉を明瞭に届ける仕事を担ったことが分かります。現存する番組記録や後年の音源は、その仕事を具体的に振り返るための重要な手がかりです。

また、NHKを離れた経緯や晩年については、複数の資料の説明を区別して読む必要があります。経歴を調べる際には、人物事典の記載、放送ライブラリーの番組情報、放送史研究家による解説を照らし合わせると、確認できる事実と解釈の違いが見えやすくなります。

1959年に49歳で亡くなった竹脇昌作は、長いキャリアを築いた人物ではありません。しかし、パラマウント・ニュースのナレーションや「東京ダイヤル」で残した印象は、放送史を考えるうえで無視できないものです。2026年現在、彼の生涯を知る意義は、昭和の名アナウンサーを懐かしむことだけではなく、映像やニュースを人々に届けてきた声の技術と、その仕事を支えた放送文化を理解することにあります。

同じカテゴリの記事

小野田 圭
コンテンツディレクター 小野田 圭
プロフィールを見る →

スポーツとアニメの話題を担当。リーグ公式の記録、球団発表、制作委員会の公式告知を確認したうえで、数値と日程を本文に反映します。

おすすめの関連記事