塩瀬総本家は、1349年(貞和5年)の創業を起点とする、日本の和菓子文化を語るうえで欠かせない老舗です。初代・林浄因が生み出したと伝わる餡入り饅頭を原点に、室町時代の足利義政から贈られた看板、応仁の乱をきっかけとする「塩瀬」の屋号、江戸幕府や宮内省との関係など、約677年にわたる歴史を重ねてきました。
2026年現在も、看板商品「志ほせ饅頭」をはじめとする和菓子の製造・販売を続けています。その歩みを公式沿革や同社の歴史資料、企業情報からたどると、伝統を守るだけでなく、時代ごとの需要に応じて商品や事業の形を変えてきた姿が見えてきます。創業年から現代までの歴史年表、歴代当主、宮内省御用達の実態、志ほせ饅頭の名前の由来まで詳しく解説します。
【この記事の重要ポイントまとめ】
- 創業年と初代:1349年に林浄因が中国から来日し、餡入り饅頭を考案したと塩瀬総本家の公式沿革に記されています。
- 屋号と歴史的な看板:応仁の乱を避けて三河国の塩瀬に移り、足利義政から「日本第一番本饅頭所林氏塩瀬」の看板を下賜されたと伝わります。
- 2026年の現在:宮内省御用達の歴史や歴代当主の事業承継を経て、志ほせ饅頭を中心に、季節商品やコラボレーション商品なども展開しています。
【1349年に創業】初代・林浄因が日本の饅頭文化に残した功績
塩瀬総本家の歴史は、南北朝時代の1349年、貞和5年にさかのぼります。同社の公式沿革によると、初代の林浄因(りん・じょういん)は中国から日本へ渡り、奈良に住んで餡入り饅頭を製造・販売したとされています。
林浄因の功績として伝えられているのが、甘い小豆餡を饅頭の中に入れるという発想です。当時、中国では肉を具材にした饅頭が知られていましたが、日本で僧侶に食事を提供する際には、肉食を避ける仏教の習慣への配慮が必要でした。
塩瀬総本家の公式解説では、林浄因は小豆を植物由来の甘味料である甘葛煎(あまづらせん)を使って煮詰め、甘い餡を作ったと説明されています。これを饅頭の中に包み込むことで、肉を使わずに満足感のある菓子を生み出したというのが、同社が伝える起源です。
同社は、この製法を日本初の餡入り饅頭の誕生と位置付けています。現在の和菓子に欠かせない小豆餡と饅頭の組み合わせを、約677年前にさかのぼる歴史として紹介しているのです。
ただし、ここでいう「日本初」は、塩瀬総本家が自社の歴史として伝える由緒に基づく表現です。現代の菓子史全体について、あらゆる起源説を排除して確定したという意味とは区別して理解する必要があります。
林浄因の饅頭は寺院に集まる人々の間で評判となり、やがて宮中にも献上されるようになったと伝わります。公式沿革には、後村上天皇から宮中の女性を賜り、男子二人をもうけたことも記されています。
さらに同社の歴史解説では、林浄因が婚礼の際に紅白の饅頭を作って配ったことが、祝い事に紅白饅頭を贈る文化の始まりにつながったと説明されています。饅頭は単なる食べ物にとどまらず、慶事や贈答の場で人々の気持ちを伝える役割を担うようになったのです。
なお、公式沿革によると、林浄因は1359年に故郷への思いから中国へ帰りました。その後も一族によって製菓の技術が受け継がれ、次の時代へとつながっていきます。
【応仁の乱が転機】「塩瀬」の屋号と足利義政の看板の由来
塩瀬総本家の歴史を語るうえで、創業から約120年後にあたる室町時代の動きも重要です。公式沿革では、1460年ごろに一族が京都と奈良に分かれ、京都へ移ったことが記されています。
その後、1467年に応仁の乱が始まり、京都は大きな戦乱に巻き込まれました。一族は戦乱を避けるため、三河国設楽郡の塩瀬という土地に移住したとされています。そして、この土地の名前にちなんで「塩瀬」と名乗るようになったというのが、同社の屋号の由来です。
つまり、「塩瀬」という名称は、創業者の林浄因が最初から名乗っていた名前ではありません。戦乱による移住という歴史的な転機を通じて、一族の名前として定着したものです。
同じ応仁年間には、室町幕府の将軍・足利義政から看板を下賜されたと伝わります。塩瀬総本家の公式沿革に記された看板の文言は「日本第一番本饅頭所林氏塩瀬」です。商品紹介などでは「日本第一番饅頭所林氏塩瀬」と表記されることもあります。
この看板は、単に歴史の古さを示す品ではありません。将軍家から評価されたという由緒を象徴する存在であり、塩瀬の饅頭が当時の権力者や上流階級とのつながりを持っていたことを示す、同社にとって重要な家宝です。
応仁の乱が終わった1477年ごろには、再び京都へ戻って饅頭屋を営むようになったと公式沿革に記されています。宮中や将軍家への出入りを許され、繁盛した結果、一族が住んだ地域は「饅頭屋町」と呼ばれるようになったとも伝えられています。
ここで注目したいのは、戦乱が事業の危機であると同時に、屋号の成立につながる契機にもなった点です。塩瀬総本家の歴史は、同じ場所で同じ形の商いを続けることだけが伝統ではなく、環境の変化に応じて移動し、事業を再構築することも伝統の継承に含まれると教えてくれます。
【公式沿革で読む】塩瀬総本家の歴史年表・1349年から2026年まで
塩瀬総本家の歩みは、中世の饅頭づくりから、将軍家との関係、江戸の名物、宮内省御用達、近代的な企業運営へと展開してきました。以下は、同社の公式沿革と会社情報、公式のお知らせ、成城大学の研究資料などをもとに整理した主な出来事です。
| 年代 | 主な出来事 | 歴史的な意味 |
|---|---|---|
| 1349年 | 初代・林浄因が中国から来日し、奈良で餡入り饅頭を製造・販売 | 塩瀬総本家が創業年とする年 |
| 1359年 | 林浄因が中国へ帰る | 一族による製菓の継承へ |
| 1460年ごろ | 一族が京都へ移り、分家する | 京都での活動が広がる |
| 1467~1477年 | 応仁の乱を避けて三河国の塩瀬へ移住。足利義政から看板を下賜されたと伝わる | 「塩瀬」の屋号が成立 |
| 1659年ごろ | 江戸へ進出し、日本橋に店を構えて江戸城の御用を承る | 江戸での事業拡大 |
| 1836年 | 『江戸名物詩選』に塩瀬饅頭が「饅頭元祖」として登場 | 江戸の名物として認知される |
| 1872年 | 宮内省から注文を受けたと公式資料に記載 | 明治期の皇室との関係 |
| 1891~1899年 | 宮内省御用達の許可制度が発足し、1899年の業者一覧に菓子商・仁木準三の名が掲載 | 御用達制度のもとでの位置付け |
| 1951年 | 合資会社塩瀬総本家を設立 | 近代的な法人運営へ |
| 1980年 | 川島英子が社長に就任 | 戦後の事業継承 |
| 2000年 | 川島一世が社長に就任 | 現代の経営体制につながる節目 |
| 2023年 | 研究資料によると、合資会社から株式会社へ組織変更 | 企業形態の転換 |
| 2026年 | 季節商品やコラボレーション企画などを展開 | 伝統商品と新たな需要への対応 |
この年表から読み取れるのは、塩瀬総本家の歴史が、饅頭そのものの歴史だけではないという点です。地域の移動、権力者との関係、都市市場への進出、制度の変化、法人化という複数の要素が重なって、現在の事業が形作られてきました。
なお、年表の「1349年」は公式に掲げられている創業年です。2026年までの年数差は677年となり、約677年の歴史を持つ老舗として位置付けられます。
【江戸時代の塩瀬総本家】将軍家御用から茶の湯・町の名物へ
塩瀬総本家の事業が広く知られるようになった時代の一つが江戸時代です。公式沿革によると、1659年ごろには江戸へ下り、日本橋一丁目に店を構えて江戸城の御用を承るようになりました。
1674年には文献に塩瀬饅頭の名が登場し、1688年の江戸名物に関する記録にも塩瀬の名が見られます。1836年の『江戸名物詩選』では「饅頭元祖」として紹介され、蒸したての饅頭を買い求める人々の様子が記されました。
こうした記録は、塩瀬の饅頭が宮中や将軍家に納められる特別な品であるだけでなく、都市生活の中で広く知られた名物でもあったことを示しています。贈答品としての格式と、日常の楽しみとしての親しみやすさを両立させた点は、長く商いを続けるうえで大きな強みだったと考えられます。
また、塩瀬の歴史には茶の湯との関係もあります。公式解説によると、一族の林宗味は豊臣秀吉の寵愛を受け、千利休に茶を学んだ茶人でした。利休の孫娘を妻とし、茶器を包める大きさの紫色の「塩瀬袱紗」を考案したと伝えられています。
この袱紗は、現在の袱紗や塩瀬織の原型につながったと同社は説明しています。和菓子を提供するだけでなく、茶の湯に関わる道具や作法とも接点を持ったことで、塩瀬は日本の文化的な営みの中に活動の場を広げていきました。
徳川家康との関係も公式資料に記されています。家康が戦いに際して塩瀬の本饅頭を兜の上に供え、戦勝を祈願したという逸話が伝わっています。この由緒から、本饅頭は「兜饅頭」とも呼ばれています。
江戸時代の塩瀬を理解する際には、権力者に選ばれたことだけでなく、町の名物として需要を獲得し、茶の湯や贈答の文化に適応したことも見逃せません。長い歴史を持つブランドが社会の中で支持され続けるには、格式だけでなく、実際に買い求める人々との関係が欠かせないのです。
【宮内省御用達から戦後へ】歴代当主と事業承継の変化
明治時代に入ると、塩瀬は宮内省との関係を背景に、菓子商としての信用をさらに高めました。ただし、「宮内省御用達」という言葉は、歴史を正確に理解するために、制度が始まった時期と実際の納入開始時期を分けて見る必要があります。
塩瀬総本家の公式資料によると、宮内省から注文を受けたのは1872年で、1890年刊行の『東京買物独案内』にも同店が宮内省御用達として紹介されています。一方、正式な宮内省御用達の許可制度が発足したのは1891年であり、1899年の業者一覧には菓子商・仁木準三の名が記されています。
つまり、宮内省との取引が始まった時期と、制度上の許可を受けた業者として記録された時期は同じではありません。この違いを理解すると、塩瀬が長く皇室と関わってきた歴史と、御用達制度そのものの歴史を混同せずに捉えられます。
同社の歴史資料には、明治期の当主・渡辺亀次郎が宮内省大膳寮に招かれ、菓子づくりや祝宴の準備を任されたという回想も紹介されています。皇室との関係は、単に商品を納めるというだけでなく、儀礼や祝宴を支える技術への信頼とも結び付いていました。
ただし、宮内省御用達制度は戦後も続いたのち、1954年までに終了しています。これは歴史上の制度であり、2026年現在も同じ制度による「宮内省御用達」の資格が継続しているという意味ではありません。
戦後の事業継承も、塩瀬の歴史を考えるうえで重要です。公式沿革によると、1940年に合資会社京橋塩瀬が設立され、1951年には合資会社塩瀬総本家が設立されました。渡辺亀次郎が社長を務め、1950年には老舗の連携を目的とする東都のれん会を結成し、初代会長にも就任しています。
その後、1953年に渡辺亀次郎が没すると渡辺よしが社長に就任し、1980年には川島英子が社長を引き継ぎました。公式沿革では、2000年に川島一世が社長に就任したことも記されています。現在の公式会社情報では、川島英子が取締役会長、川島一世が代表取締役社長を務めています。
歴代当主を調べる際に注意したいのは、代々同じ名字の人物だけで事業が継承されたわけではないことです。公式沿革には、池田徳兵衛から甥の仁木準三への名跡の譲渡や、仁木準三から渡辺トクへの譲渡が記されています。塩瀬の歴史には、製菓の技術や屋号を引き継ぐだけでなく、名跡や事業の運営体制を整え直してきた経緯も含まれています。
このような変遷を踏まえると、老舗の継続を単純に「同じ家が同じ商売を続けた歴史」とだけ捉えるのは不十分です。屋号、技術、顧客との信頼、経営の仕組みを次の世代へ渡してきたことが、長期的な存続を支えた要素と考えられます。
【2026年の塩瀬総本家】志ほせ饅頭の名前の由来と現在の事業
2026年現在、塩瀬総本家は和菓子の製造・販売を事業の中心とし、饅頭、羊羹、焼き菓子、最中、上生菓子、季節の朝生菓子、慶事・弔事向けの菓子などを扱っています。公式会社情報では、創業年を1349年とし、株式会社塩瀬総本家として事業を展開しています。
2025年3月刊行の成城大学『成城・経済研究』に掲載された研究資料によると、同社は2023年に合資会社から株式会社へ組織変更しました。創業以来の歴史を掲げながら、現代の企業運営に合わせて法人形態を変えた点は、伝統と経営の両立を考えるうえで注目されます。
現在の看板商品である「志ほせ饅頭」には、名前そのものにも興味深い由来があります。塩瀬総本家が2023年6月に公開した公式記事「焼き印」によると、「志ほせ」という表記は、饅頭の焼き印から生まれました。
商品を現在の小ぶりな大きさに改めた際、旧字の「鹽瀬」は画数が多く、焼き印で押すことが難しかったため、「志」の字を当てた「志ほせ」という表記が使われるようになったと説明されています。つまり、「志ほせ」は古い屋号の単なる読み替えではなく、商品を仕上げる工程上の工夫から生まれた名前なのです。
公式の商品紹介によると、志ほせ饅頭は大和芋を使った薯蕷饅頭です。職人が毎朝、大和芋の皮をむいてすりおろし、米粉と合わせて生地を作ります。生地の状態は気温や湿度によって変わるため、その日の環境に合わせた調整も必要です。餡には北海道産エリモショウズやザラメ糖が使われています。
この製法からは、伝統が単に古いレシピを保存することではないと分かります。原材料の扱い、気候に応じた生地づくり、焼き印を押すタイミングなど、日々の製造現場で繰り返される技術の積み重ねこそが、商品の品質を支えているのです。
一方、現在の事業は伝統的な饅頭だけにとどまりません。塩瀬総本家の公式お知らせ欄には、2026年9月の豆大福製造再開や銀座ウエストとの季節限定コラボレーション、同年4月の横浜美術館とのコラボレーションなどが掲載されています。また、10月15日のテレビ朝日「プラチナファミリー」で紹介される旨の告知も掲載されました。
こうした動きは、歴史ある商品を維持しながら、季節の需要や他業種との連携、新しい顧客との接点も重視していることを示しています。長い歴史を持つこと自体が、現在の事業を自動的に支えるわけではありません。伝統的な技術を維持しながら、現代の消費者が手に取りやすい商品や販売機会を生み出すことも、事業継続の一部です。
なお、2026年現在の主な売店として公式会社情報に掲載されているのは、築地本店、松屋銀座店、大丸東京店、日本橋高島屋店です。店舗ごとに取り扱い商品が異なる場合があるため、特定の商品を購入したい場合は、事前に最新の販売情報を確認するのが確実です。
【塩瀬総本家歴史】に関するよくある質問(FAQ)
Q1:塩瀬総本家の創業年はいつですか?
A1:公式会社情報では、1349年(貞和5年)を創業年としています。初代・林浄因が中国から来日し、奈良で餡入り饅頭を作ったことが始まりとされています。
Q2:塩瀬総本家は日本で初めて餡入り饅頭を作ったのですか?
A2:塩瀬総本家の公式沿革では、林浄因が日本で初めて餡入り饅頭を作ったと説明されています。これは同社が伝える由緒に基づく説明であり、日本の菓子史におけるすべての起源説を排除して確定したという意味ではありません。
Q3:「塩瀬」という屋号はどこから来たのですか?
A3:公式沿革によると、1467年に応仁の乱が起こった際、一族は三河国設楽郡の塩瀬に移住し、その土地の名前にちなんで「塩瀬」と名乗るようになりました。
Q4:足利義政から贈られた看板には何と書かれていますか?
A4:塩瀬総本家の公式沿革には「日本第一番本饅頭所林氏塩瀬」と記されています。商品紹介などでは「日本第一番饅頭所林氏塩瀬」と表記されることもあります。
Q5:「志ほせ饅頭」の名前の由来は何ですか?
A5:同社の公式記事によると、商品を小ぶりなサイズに改めた際、旧字の「鹽瀬」は画数が多く、焼き印で押しにくかったことから、「志」の字を使った「志ほせ」という表記が生まれました。
Q6:塩瀬総本家は現在も宮内省御用達なのですか?
A6:宮内省御用達は歴史上の制度です。公式資料では1872年に宮内省から注文を受け、1899年の業者一覧にも名が記されていますが、制度は1954年までに終了しています。現在も同じ制度の資格が継続しているという意味ではありません。
Q7:2026年現在の塩瀬総本家は何を販売していますか?
A7:饅頭を中心に、羊羹、焼き菓子、最中、上生菓子、季節の菓子、慶事・弔事向け商品などを製造・販売しています。公式のお知らせでは、季節限定の企画や他社・文化施設とのコラボレーションも紹介されています。
まとめ:塩瀬総本家の歴史から分かる老舗が続く理由
塩瀬総本家の歴史は、1349年の林浄因による餡入り饅頭の創作に始まり、応仁の乱を機に成立した屋号、足利義政から贈られた看板、江戸時代の名物としての発展、宮内省御用達、戦後の法人化、そして2026年の現代的な商品展開へと続いています。
この歴史を理解するうえで大切なのは、創業年の古さだけで評価しないことです。塩瀬総本家は、戦乱による移住、都市市場への進出、当主や経営体制の交代、企業形態の変更など、さまざまな変化を経験してきました。その一方で、饅頭づくりの技術や屋号、贈答文化との結び付きなど、受け継ぐべきものを維持してきたと公式資料から読み取れます。
【プロの結論】老舗の価値を見極めるなら、創業年や歴史的な称号だけでなく、現在も商品が作られ、技術が継承され、事業が変化に対応しているかを確認が必要です。塩瀬総本家の場合、志ほせ饅頭に代表される製造技術と、季節商品や新しいコラボレーションへの取り組みを併せて見ることで、伝統が過去の記録にとどまらず、現在の商いとして続いていることが分かります。
1349年から約677年。塩瀬総本家が歩んできた歴史は、和菓子の発展とともに、時代の変化に対応しながら価値を受け継ぐことの意味を伝えています。2026年以降も、その伝統がどのような商品や文化的な取り組みを通じて次の世代へ引き継がれていくのか、引き続き注目されます。